インターフェイス (仲介者)
現代人の全てが陥っている最大のジレンマは、インターフェイスである。 昨今のトヨタの騒動もそうだ。 マスコミはビッグスリーのインターフェイスである米高官が素因だと思っているらしいが、トヨタの地盤である州の議員たちというインターフェイスも多数居る。彼らもトヨタのインターフェイスへの取組みの中身を確認したいのである。 問題の素因は、このインターフェイスというモノの認識にあると思う。 欧米人は、新しいシステムが開発されたら、次には、このシステムと生身の人間とのインターフェイスを徹底して検証する。これが最も重要な課題で、これをやらなかったら、新システムの技術など、そのままでは「無価値だと」身にしみて知っているからである。 飛行機は飛ばして落し、車はぶつけて検証していく。 伝統の心構えを重視する日本人は全く違う。 もともとインターフェイスという発想がなく、心構えさえあればよいと考えている。システム技術は、現場での技術者のすりあわせ技能に頼ればよい、と、考えている。 だから技術者が、技術に自信がありますといえば、それを試すようなことは省略して儲けに回す。 その精神主義で戦争に負けたのに、まだその敗因にも気がついていないのである。 伝統の心構えというのは、そもそも精神主義ではなくて唯物史観なのである。 機械やシステムを、ご先祖は、こころのモノの立て組だと理解していた。インターフェイスという発想はなく、技術ノウハウという発想も無い。そのかわり、こころがまえという唯物史観が伝授され、作られるモノはすべて、即、職人のこころのモノだったのである。 そもそも技術ではなくて、技能だった。 欧米の考え方が入ってきたとき、そのビジョンと仲介者でなり立っている考え方を取入れずに、伝統の考え方を修正するやりかたで、その技術思想を受けいれた。 いわゆる和魂洋才。インターフェイスと科学技術ではなく、唯物論ではなくて精神化した和のこころと科学技術を採り入れた。 だからインターフェイスの部分は、現場の技術者が自分のこころに背負込むことになってしまったのである。 しかし現代文明の最先端が陥っている最大の危機は、このインターフェイスの齎す危機である。 政治、経済、学術、芸術、体育、遊興、その全てが立て組まれたインターフェイスに負って成立している。その増殖のスピードに、現場の技術者がついていけなくなってきている。コンピューター技術が良い例である。 そもそも、カネも政治も、インターフェイス(仲介者)なのである。 誰と誰の仲介者なのか。 未だ実現していない自己と、そしてすでに無い存在者の存在(神=主人)との。 およそ日本人には関係のない世界だが、深く西洋思想と関った人たちは、このテーマも背負込んでしまうようだ。 この印欧語が持つ現代特有のジレンマには、e-dinという膠着語の、原初の庭が深く関係している。原罪や、庭からの追放という、あの物語である。 私ども膠着語の民にとっては、思い出す必要も無い、過ぎ去った過去の庭である。 過去の人は、徳も得も同じ穴のムジナだと、良く知っていた。自己実現の欲求とか、人権とかは、話題にする必要も無かった。奴隷状態だったからというより、そんな哲学は無かったのだ、ということである。 ジレンマを深く追求して東洋のレンマ論理を見出したのは、学生のころ特殊講義で学ばせて頂いた山内大先生だが、その方角には、やはり西洋的なインターフェイスの欲求が絡んでいやしませんか、と尋ねてみたい昨今なのである。 **やっと川に到達