音楽とは何であるか(マーラーの第10番第1楽章とともに)15
音楽というモノがなぜ楽しいのか。 経験済みのモノである馴染みのモノが、音楽の庭という方枠から、あふれ出てくる。ビジョンは、文字通りいくらでも湧いて来る。 それが不安な中身の無い美人局であろうが、思い込みの誤謬であろうが、関係ない。 馴染みの日常は馴染みの日常で、本物であろうがニセモノであろうが、知ったこっちゃない。 新しい日常を形成できる音楽の楽しさに、高級も低級も、本物もニセモノも無い。 音の経験というのはたちどころに反復可能であるし、その天才の受取りなおしにも、高度な演奏技術が必要なわけではない。 演奏という、技術的に極めて難しくまたしんどい部分を、演奏家が引きうけてくれるので、聞くほうは耳を傾けるだけ。味わいを繰り返せば良いだけである。 そこに日常が即座に形成され、一期一会の不安は、あっさりと去ってゆく。 予想しない転調に落っことされても、その予想しない意外さ自体が日常となる。 音楽というのは、この馴染みの日常にくり返し出会う楽しさ、といって良いだろう。時間のインスタンス生成に、くり返し出会う楽しさである。 マーラーの場合は特に、音があや織る庭園の彼方に、この日常の不安を垣間見させてくれる力があるのだ。 ブラームスのような子守唄ではなくて、まるで反対の、覚せい剤のような力が存在している。 その不可解な力が、この日常はニセモノだぞ、そう言っているのである。あふれ出そうになるビジョンを封じ込め、そのビジョンの足元を問いただしてしまうような覚醒がある。 まるで、この音は「モノ」だぞ。そういっている。 伝統の能楽や猿楽で出会うモノと、実によく似ているのである。