光と音、空間と時間、のメタタフィシカ 21
その庭を徹底的に詮索し、堀起したのが、デカルトである。 彼は最初に、考えるという現実にあらかじめ含まれている仮想の存在に出会うのだが、悪霊や誤謬と出会いたくないゆえに、明晰判明なもののみを取りだそうと試みる。宗教的思想にも経験的な知識にも囚われたくなかったのである。 そしてコギト・エルゴ・スムという有名な言葉を見出す。主語の必要な言語において、あえて一切の対象を示す言葉を省略してである。 考えるということを立てれば、存在が立つことを見出したのである。 これはどういうことかというと、私どものこころの庭をモデル化したのである。 自然という対象が、私どもの「こころの認識」を支えているのではなくて、コギトという「庭の機能」が支えているのである。 ということは、雷として選ばれた「自然の対象」が私どもの認識を支えているのではなくて、それを考えようと言う「私どもの認識」が、その対象を支えているということである。 バーチャルに囚われない明晰判明な思惟は、かくして可能となり、堅固な科学技術の基礎がここに立てられたわけである。デカルトの場合には天上の神が全く疑われてはおらず、今日の事情とは若干異なるのであるが。 そして私どもの認識を支える有限かつ有効な実在の形式として、エクステンサ(延長)およびコギタンス(考える主体)が見出された。 これを物質と人のこころegoとして捉える向きが一般的なようだが、それはデカルトの思惟を台無しにする解釈だと思う。 デカルトはスム(存在)を完璧なイデアに近いものと考えているが、エゴというのは言語特性による単なる(仮のー仮想の)主語にすぎないからである。 むしろその神の影である存在から、空間(エクステンサをこう解釈する)とこころ(考える主体、コギタンスをこう解釈する)を演繹したのだと考えたい。 そしてこの有限な二つの実体は、お互いに調和するより、むしろ乖離するのである。