詩論 ミュウズという形式 12
批評精神が目覚めて背後に居座る典型は、ほかにもある。たとえば漫画。 形式化した人物を描くことに終始し、こころの写し絵で出来上がる漫画の背後には、作者の批評精神が目覚めて居座っている。それらは決して詠嘆や歓喜の自己喪失では終わらないのである。 漫画は実は、紙一重で極めて詩の立場に近いと思うが、ミュウズ神はおろかバッカス神も、そこに座を見出せないはずだ。漫画独自の方枠が崩れてしまう。ギリシャ時代には美術として絵のジャンルなど、なかった。詩的な漫画のような絵はあったが、絵一般は学芸や詩の姉妹ではなく、美術でもない。壷や壁の装飾工芸に過ぎなかった。。 およそ冷めた目で、描きたい対象を選び取り、筆を使っても、言葉を使って描いても、それは詩にはならない、ということである。 むしろ自分のものでない季語に託し、通り過ぎる日常の中に季節の片鱗を見出せば、それは俳句という名の詩として成立する。 川柳の成り立ちはちょっと難しそうなので、この俳句の成り立ちの解体からとりかかってみよう。 静かさや、岩に染み入る、せみの声 シーシーセ、という独特の音を多用し、つまり隠れた韻を踏み、更にその韻で鳴くせみという季語を使い、堅固な岩なんぞに染みるはずのない強力無比な未知の韻声を中心主題に据えた、文字通り天才的構成の作品であると思う。 この詩の成り立ちは、5,7,5+季語という形式に嵌っているということだけではないのである。それはもちろん、基礎であるが。 日常にある静寂とセミの声という喧騒を、岩という語らぬモノに語らせるという、とんでもない技巧こそが、この詩の成り立ちを支えている。 だが、この技巧は、じっくり考えて出てくるはずの無いものである。 技巧を語っているのは、芭蕉の冷めた批評精神では無いのである。 詩神ミュウズが天才という形で降臨し、立て組まれているのである。