自然学としての経済学 13
自分が立てた目的に、自分のこころが立て組まれ、囚われてしまっている。 これでは中庸な思惟など出来るはずがない。 価値論が常に唾棄すべき形而上学に落ち込むのには、この用途性が介在し、「目的」という立て組へと人のこころが組み込まれる、という事情があるのである。 その背後には身体的欲望や諸々の欲求が居る。 人は、身体を持って生き死にに関わる、惨めなサルの仲間にすぎない。その事実が中庸な思惟の観想を妨げ、同時に常識的な価値を齎している原因だろう。 本当は、こころなど、もしかしたら、無いのである。 立て組まれた惨めな生きものとしての不自由があるから、こころがあるように思っている。 そのこころが抱く価値などの方は、間違いなく無いのである。 この価値の根拠は、有限な限られた命であり、限られた時間にすぎないからである。 その限られた時間が欲求を形成する。欠乏が、亀裂として空洞を埋めるよう要求する。 目的というのも、人が有限である以上、実は価値同様美人局であって、限られた時間の不足が、つまり欲求が齎すビジョンなのである。空虚な対象的イデーという、仮想のモノだと、いうことである。オブジェクト・クラスだと。 その目的物を描いて公共に示す能力が、エンターテイメントである。 それも、欲求を見せずにオブジェクト・クラスとして喚起させ、美人局の美人を、カネさえ払えばモノに出来るように思わせるのが、エンターテイメントの高度な技術というものである。バーチャル・リアリティ技術を考えていいと思う。 モノにはできなくても、高度なエンターテイメントであれば、人は満足してカネを払う。ある種の代償的な役割も、担っているものと思われる。昇華とかいった、まるで美人局を認めて、しかもそれが目的のような概念もある。 メにする的(まと)には、お目当てのモノが無くてもいいんだ、というのである。芸術作品のすばらしさを前に、呆然自失、目的も忘れてしまう、という体験である。 しかしである。 美を前に、欲望も自分の目的も忘れて立ち尽くしてしまう。 審美的なモノに囚われてしまうと、それが起こる。 更に高度な倫理・道徳的なモノに囚われてしまうと、その茫然自失が行動への責務に変わる。 そして最高位の宗教的なモノに囚われたら、それらすべてがコンクリートされてカルトと化すのである。 価値は、中庸な思惟とは無縁なモノだと言い切っていいと思う。 つまり自然を観想する類の思惟ではなくて、エンターテイメントを値踏みするような類の思惟のモノであると。 しかしこれは、自分が立てた目的を呼び込んだ、当のモノである。これもまた、必ず自然のモノ(認識だということ)であるはずなのである。 *起きそびれて畑仕事さぼった・・・眠い