自然学としての経済学 43
その自然が儲けた経済の種子に、自然抜きで、遺伝子情報の詰まったインスタンス用のオブジェクト・クラスの記述だと、時間手順の図式を騙る者が趣旨である。これの別名を発明特許情報ともいう。 極めて錯綜としていて、未だややこしい。だが、重要な問題がここにあるので、暗くて論理が一切見えなくても、読み飛ばさないでいただきたい。金子の趣旨も、種子の趣旨も、ここにあるのである。 また今日では、自然ということの意味が、常識的自然観に騙されて空虚なイメージとなってしまっている。だから、この経済の種子問題は容易に逆読みのモトとなる。不変の真理を伝える遺伝子の意味になる。 逆に、そう読んでしまったら、むしろ危険地帯なのである。 さて、経済活動は人の自然な(認識の様にある)労働の実践であり、それは資本投資と搾取を目的として営まれている。 その目的行為のなかで、人はまず種子を見出し、それを自分の身体以外の資本として拡張身体に投下することを覚えた。 そして更に、類似の趣旨を次々と見出していった。そう考えるべきなのだろう。 メタル・コインが種子に模されて作られ、更に類似の趣旨を内在する機械システムというもの、つまりオブジェクト・クラスが次々と考案されていった。ネズミ講も、この一つである。 (方枠の)趣旨は、容易に人の思弁を栄養として育ち、実を結ぶ。 人が種子を利用搾取することで、実は植物も人を投資利用、搾取してきたのであるが、これと同じようなことがオブジェクト・クラスの領域でも起こったのである。 オブジェクト・クラスというのは、モノとしての目的を持った時間的基礎を持つ方枠のことである。憂慮の方枠とも、図式(シェーマ)とも表現できるモノで、天才のものである。 人の才能の意味ではない。天からの構想力が生んだ、人知を超えるものであると言うべきか。 貨幣がすでに、このようなモノであったと、対象化して想定できる。 人はそこに同義反復を見て、・・・がある、という現存との臨在を得たとも想定できる。これはカテゴリー的思惟であるが、カテゴリーは政治基盤抜きの範疇ではなくて、経済の中でこそ意味を持つ実在のカタログなのである。 個々の金属片は、王権の象徴となり、普遍的な臨在となり、そして価値の仲介者となった。 価値は「モノの物々交換が生んだものではなく」、この貨幣というモノとの出会いに置いて、人の間に入ってきた「理念=イデー=対象的思惟」なのではあるまいか。 種子が人を投資利用、搾取してきたように、この貨幣もまた、人を投資利用、搾取してきた。 それどころか一部の人々は貨幣の奴隷と成り果ててしまった。このテーマは繰り返し世界中の物語になっている。 そして貨幣の趣旨にあるオブジェクトクラスに気が付いた賢い人が、カネを投資して搾取する以上の、効率的かつ画期的な権力意思そのものの搾取方法を思いついたのである。 情報を対象に仕立ててしまう。