タ・フィシカ(第二章 デカルトの認識論を軸に)2-24
有名なコギト エルゴ スム、という短い言葉の中に、彼は明晰判明で疑い得ない認識を得たと自分で述べている。考える ゆえに ある。 これがどうしてエゴの確立に繋がるのかといえば、コギト エルゴ スムでは印欧語が成り立たないからである。私どもは考えて言語を綾織し立たせているのではなく、言語がたつことで考えている。言霊を呼び寄せている。 考える、ということを立てれば、そこには必ず、ある、ということが同時に立っている。そこにある明晰判明で疑い得ないモノというのは、悪霊の考えでも、ありてある多様な存在のありかたでもなく、これらの知と無知を司る言葉の立て組みなのである。 つまりここにある認識は疑い得ない。ある、という類義反復にすぎなくても、思惟と存在は同時に(私の)認識として立つのである。そんなことには無知であったと。 諸々の現象は、いくらでも疑いえる。つまり私の認識がよみっとったと思っている諸現象やその中身は疑いえる。しかし認識がある、という、この無知への入り口は疑い得ない。 デカルトは、始原を、立て組まれたものの認識におけるアルケーを、そこに見出したのである。命題としてのエゴ(私)に、である。 Je pense, donc je suis という、小生にはチンプンカンプンのフランス語には、必ず主語が立つのだが、これに囚われると立て組みに囚われてしまう。だから、日本人がデカルトの思惟について考える場合には、主語をなくした方がわかりやすい。デカルトの目的は、明晰判明な疑い得ない足場の構築ではなく、その足場を取り払ってみる哲学だからである。単に、コギト・スム、という呪文でよいと思う。 デカルトは「思惟認識として、疑い得ないトアルモノが立っている」ことを告げているのであり、主語に拘っているのではない。それらが明晰判明に立つことに気がついていなかった、自分はいつでもそういう認識をしていたのだ、と、(私)が知らなかった「無知の知を見出し、覗き込んでいる」のである。 そして逆に言うと、(私)は、そのことで立たされている。 科学技術思惟方法の真理や、形而上学的知識を述べているのではない。ましてや認識における科学技術の堅固にコンクリートされた基礎を示しているのではない。 逆である。取り払って見せているのである。(私)の危うい足場を、である。 認識する主体と、その対象物の実在について述べているのではなくて、考える主体と対象物という関係が立つそこには、明晰判明で疑い得ない立て組みが必ず立っている、という、(私の関わる)認識に必ず伴われている哲学の始原のありかを、自らの思惟の無知へのケーレ(転回)をこそ、告げているのである。