タ・フィシカ第2巻 序 4
人のココロで理解しがたい。誓約の場が見つからない、から、理不尽なのである。 「自然という、人の認識が相手に出来るのは日常の繰り返す出来事だけ」、なのである。 つまりテクノロジーの宇宙論が見出しているのはテクノロジーの宇宙モデルであって、自然(認識)とは何の関係もないものである。 千年に一度の大津波、などというものは、もともと日常のモノであった。 過去に繰り返し起きた出来事であり、貝塚の主たちはそれを見守って数千年を生き延びて来た人々だった。 弥生時代以降になって列島に侵入して、たぶんそんな注意深い彼らを採って食ってしまった、現代の刹那主義的日本人は違うのである。 太古の人々と何処が違うのかというと、私どもは明治以降「理念に導かれて暮らしている」、ということである。膠着語六千年の日常を捨てて、イデーやイメージに頼っている。 このイデー(理念)は価値観をもたらす悪霊なのだが、誰も、そうは思っていない。 萩原朔太郎先生が危惧し警告したイマジズムは、西洋人を導く理念の代わりとなって、私ども日本人の日常の判断をも導く、美的価値観の主に化けて居座ってしまっている。 問うこと、尋ねることで私どもは身の回りを理解し、理として日々を見守ってきた。 いつ、何処で、誰が、何を、どうした、なぜ、というのがその見守ることとともにある理なのだが、この最後のものを、なぜではなくて、どうやって、と変えてしまうのが技術の理念である。関係を変える。 同時に、いつ、どこで、という問いも、問ではなくてエンターテイメントで準備する。イメージという名の空虚な悪霊が入り込む。 日々を見守ってきた、いつ、何処で、誰が、何を、どうした、なぜということごとくが、そこであっさりと仮想のモノに摩り替わり、コンクリートされて、それが現実の型枠になってしまうのである。 全てが想定される、つまり理念という仮想のクラスとして立て、組まれ、日々を見守ってきたことごとくが水泡に帰す。雲散霧消する、ということである。 別の現実が居座る。 この仮想のクラスを立て、組む力はポイエシスではなくて、工学技術である。どうやって、という最後の部分である。ヴァーチャルを被せて、全ての現実を摩り替える。 それが有用な工学技術なのである。