タ・フィシカ第2巻第三章 庭の詩学 3-42(庭とこころの関係)
庭とこころの関係は、古来より無数の文人によって語られてきた。 しかしこの、こころの秘密がからんだ怪しげな関係は、微かなイデー(理念)の介入で雲散霧消するのである。過去に落ちて見えなくなる、ということである。 また、弁証すべき事柄を庭に頼っているこころの方は、庭が理念化されたり、その理念によって対象化(ゲーゲンシュタント化)されることで、これもまたあっさりと架空の未来に飛翔し、実際には過去に落ちて見えなくなる。 それだけではなくて、今度はその理念が、そんなものは無い今への注視を要求し始め、庭もこころも、ともに理念だと、理念の要求しているそのことだと言い出す。庭は、あげくは立て、組まれた文化財と化してしまう。 文人の多くは庭に直面したときのデジャ・ヴィにも似たインスピレーションを何とかとどめようと苦慮はするのだが、結局、ほとんど理念の餌食となるのである。 暗いまなざしで、いつまでも庭にとどまるゲオルク・トラークルや、子供の時に還るロバートのような文人は稀なのである。 庭とこころの関係は、詩の成り立ちを語ることで見出される。 逆に、詩の成り立ちは庭とこころの関係で論議できる。 同時にこれはじねんな、あらわな関係なので、その詩学を支えうる論理というのは、大乗の思想を支え続けるジレンマのごときモノなのである。タ・フィシカのものだ、ということである。しかし哲学者が詩うと、それはもはやニヒリスムスのうたである。 この章にとっつくためには、まず悪霊を振り払う誓約(うけい)の儀式が必要である。 庭がまさしく、もともとは誓約の儀式の場であったと思うのだが、そのことが全く見えないほどに、今日の私どもの洗脳の程度は酷い。 さしあたり、既存の詩の庭を示して、それの破壊から取り掛かりたい。それは、こころの分解作業でもある。 使うのは次の詩。Im WaldeHier an der BergeshaldeVerstummet ganz der Wind;Die Zweige hangen nieder,Darunter sitzt das Kind.Sie sitzt in Thymiane,Sie sitzt in lauter Duft;Die blauen Fliegen summenUnd blitzen durch die Luft.Es steht der Wald so schweigend,Sie schaut so klug darein;Um ihre braunen LockenHinfliest der Sonnenschein.Der Kuckuck lacht von ferne,Es geht mir durch den Sinn:Sie hat die goldnen AugenDer Waldeskonigin. ウムラウト消えてますので注意!テキストには使えません。