明治以降における中国との戦争の経緯 2
清国は、絶対の優勢だった頃から、朝鮮の利権をめぐって日本とコトを構えるつもりは皆目なく、日本もまた強大かつ寛大な清国の支配から朝鮮を奪い取るといった大それた意図は皆目無かった。 ハゲタカ、フランスや米国のような態度は慎むべきものと、建て前として考えていた。 いずれも戦争で予想される被害に見合うメリットがない、と考えていたのだろう。 それは明治7年の台湾出兵や琉球を巡っての12年頃の交渉経過などの、一連の事件でも明白である。清国絶対優勢の時期にも、日本は建て前で動いているし、清国は末端の些細なことは気にしていない。メンツを護っているだけである。 朝鮮支配の目的で戦争した、というのはウソである。勝ってから、勝ってしもうた、どないしよう、と、閣議であれこれ検討しているくらいである。 ただ、明治27年のときは、戦争になったら日本側が有利だということは日本側も清国側も、知識人は知っていた。たった7個師団しかなかったのだが。(日露戦争時には13個) 北洋艦隊は日本側には相変わらずの脅威だったが、軍紀訓練の差が歴然となりつつあった。だから清国側は戦争したくなかった。但し、大帝国のメンツがあったのである。 日本側には朝鮮王宮や長崎での、前回の仕打ちへの恨みが残っていた。 閔氏一族と清国の巨大戦艦に一矢報いたいと、兵士の誰もが思っていた。しかし日本の政権中枢が朝鮮へ出兵した本当の理由は、全く違うのである。 朝鮮がほしかったのでもなければ、清国をたたきたかったわけでもない。 南下してくる列強最強のロシアからどうやって身を護るか、先のことばかりを考えていたのである。現にハワイも米国にやられかかっている。いずれ日本も同じ目に会う。 大陸に、防御拠点となりうる、足がかりが必要だった。しかし地域の寛大な宗主国清国は、今になっても目覚めてくれない。満州は、すでにロシアに侵されつつあった。 建て前として邦人保護が使えた。欧米列強が常に使う手である。 だから東学信者の農民軍が朝鮮政権を倒しかかって、閔氏一族が清国に援軍を求め、清国から朝鮮に進駐する旨の通知があったとき、日本も、今度は30名ではなく6千人という部隊を送り込んだ。 最初から、戦争できる旅団規模の軍隊を送り込んだ。 但し清国側が日本の意図を正確に読んでいたら、起こらないはずの戦争だった。清帝国の崩壊もなかっただろう。日本の仮想敵は清国ではなかったからである。兵士は粗野だったが、朝廷は今の中国のような強引なハゲタカではなかった。文化人だった。 ところが清国は、無意味なメンツにこだわった。 日本側も真意を隠して自国民をも騙し、建て前にこだわった。撤兵したらどうなるかは、すでに知っていたからである。 そして朝鮮でにらみ合いの末、戦争になったのである。結果として勝てたが、1万人以上の、若い日本兵が死んだ。それだけではない。本当に恐れていたことも起こった。 南下を続けるロシアは、日本が清国から得たはずの旅順租借地を横取り獲得。日本の恐れは、以後、恐怖になってくる。