明治以降における中国との戦争の経緯 30
アホな連中が欲に目がくらんで、綱渡りだった日露戦争を経て、せっかく作った緩衝地帯に、自らノコノコ出て行ったからである。さらにロシア崩壊後の共産主義者ソ連軍の目論んだワナに、まんまと、はまった。 ソ連の方が圧倒的に何もかも、上手だった。 北進を主張する連中に指導された日本軍が1939年にノモンハンで叩き潰されて、以後北進派が押し黙ったのは有名である。但し、これを指導したのと同じ連中が、インド作戦をも指導して、また負けたのである。 関東軍を始めとする小出しの派遣日本軍は、BT戦車に次々やられて壊滅状態になっていったのだが、実はソ連側は田舎駐屯の地方軍などではなかった。極東ソ連の全軍、文字通り全力投入だったことがわかってきている。 戦争被害も未曾有のものだったらしいことが、ごく最近になって公表された。 兵員の損失は日本軍と同等の3万弱だが、航空機350機、装甲車両400両を失っている。 日本軍の戦車喪失は30、航空機180なのである。但し日本軍は重砲は全部を失った。要するに部隊ごと壊滅したのである。無事帰還できたのは、半身不随の航空部隊だけだった。 ソ連軍がこの戦いに投入した兵力は航空機約550機、戦車約600と推定されているので、戦車部隊と、特に航空部隊も、ほぼ壊滅していたのである。単純な日本側のボロ負けだけではなかったのである。(これの3倍近い損害説もあるが、それでは全ソ連軍が壊滅していたことになってしまう) しかしソ連側は、被害の方は最近まで隠し通した。そして作戦目的を完璧に達成できたのである。満州への侵攻など、予定にも無かった。 日本側が完全にびびってくれたので、寛大さを見せて国境まで下がって日本側と不可侵条約を結び、以後この地帯のソ連軍は、がら空きにすることができた。そして、1941年のモスクワ防衛が達成できた。 これがなかったら、日本軍と戦った戦訓から最新鋭の補充T34を装備したソ連軍精鋭部隊とそれを率いるジューコフ元帥は、動けなかったのである。 極東で、ボロい装備の関東軍と、いつまでも対峙していただろう。 最精鋭部隊の極東軍が動けないまま、モスクワは陥落して、ソ連邦自体が崩壊していたと思われる。 日本軍の上層部は、小出しに派遣して負けた師団長や連隊長クラスを次々処刑しただけで、自分たちは生き延び、戦訓からは全く学んでいないのである。扇動した北進派が、南進を主張し始めただけである。完璧に病んでいた、と言うべきである。 1941年に松岡外相がソ連と不可侵条約を締結した直後に、特別演習ではなく、動員した70万の関東軍に海軍の航空艦隊を付けて、朝鮮軍も満州軍も総動員で、全力で北進をすべきだったのである。 精鋭部隊のいない極東のソ連軍は、あっという間に崩壊しただろう。 ** ついにジャバスクリプトが有効では、投稿作業もできないほど重たくなってきた。楽天サーバーは単なるブログに、へんなアプリをくっつけすぎ。