ニヒリスムスと共有について 6
「メー・オンな存在」というのは、普通に言うと、無、ということである。 オンというのは存在、ということ、・・・である、ということであるが、メーというのはその否定形であるとされている。存在にこだわらないこと、存在を忘却することでもある。 忘却して無がでてくるのかというと、実際には存在忘却の公共の歴史が出てくる。 このメーというのもまた、古代ギリシャ時代には否定語でしかなかったのかも知れないが、太古の言語では「神々の力」を言う。 古代ギリシャ人たちが、それを完璧に見失っていたとは思えない。 むしろ共有する社会の言語としては存在の否定形でしかないが、非共有の人個人の、生命や運命、解明や自明などとは直結した意味が、未だ残っていたのではないか、そう思うのである。 現に私どもの漢語(これは太古のご先祖たちの膠着語ではない、古代の中国語である。言語としては印欧語に近い)には、漢字で示したように、明確に(メー・カクに)残っているから、である。 ただ、これらは人智で捌けても掴めない力、迷や謎なのである。つまり冥界の神々の力である。 明るい、という物事を捌くことは出来る。だから明るいと言える。 しかし、これを掴むことはできない。人は未だ光や明るいということの全てについて、掴んでいない。いくらルクス(照度)で基準を作ってもだめである。意味が違う。メーが述べている明るさは、盟や謎や冥をも含む明るさなのである。 古代ギリシャ人は半神とも思えるような智への誠実さを持つのであるが、人智でつかめない以上は、否定形なのであろう。私ども膠着語を持つ種族のように、建て前で仮に立てて(ウソをついて無責任に)考えることができないのである。 共有理念というのは、ディアレクチークでしか確認できないメー・オンな存在である。なのに、これがおおっぴらに法律や科学技術研究の命題(メー・題)として、私どもの日常に居座っている。 ソクラテスが公共広場でディアレクチークを論じていたのは、イデアという命題で天国の理想を掴むためにやっていたのではない。逆である。 イデア論という世間常識を騙る人々の無知を、ディアレクチークで、その無知を悟らせるために、やっていたのである。 それが「メー・オン」な事態である事を悟らせるために、である。 無を捌くために。