ニヒリスムスと共有について 36
世に、有用なデータが情報で、有用化されていない、いわば控えている情報がデータである、という、へんな情報工学基礎が堂々と流布している。 だから、情報公開制限うんぬんで、とんでもない大混乱が生じている。 本当は世に無用なデータなどは存在せず、すべて有用だからデータ化されているのである。また顕在か潜在か、といった問題でもない。顕在、潜在は、これもヴァーチャル問題と混同されており、やはり泥沼が出現している。これもあとで節を設けたい。 コトは日常(存在)か共有(理念)か、という問題にすぎないと思う。 これは工学問題なんぞではなく、哲学(無知の知)の問題、なのである。テクノロジーに携わる工学技術者が、基礎固めの時期なので哲学と出会っている、だけなのである。 しかし哲学が踏みつけにされて無視されで、その共有理念が売買対象となり、日常存在が疎外される惨状なので、もう何もかもメタメタ、ヌメヌメの泥沼状態なのである。 先にも述べたように、共有理念は存在を持たず、日常存在は共有を持たない。この認識がないから、神(デュナミス)が捌けず、有用の仲介者という名の悪霊(捌き損ねたエネルゲイア)に対処できないのである。 というより、仲介者という名の悪霊が万事を取り仕切っているので、人は疎外され、共有理念が売買されているのである。 エネルゲイア(仲介の形容=実在)が取りざたされず、逆に形容の仲介(理念=ニヒリスムス)が取りざたされてしまう、とんでもない事態である。 だから時間手順や論理手順としての、人の側のそれらが売買されることとなる。 本当は、時間や論理を有らしめる、オルガノンとしての人が奴隷同然に売買されてしまっている。労働者市場という名の人身売買、奴隷市場である。この市場は資本主義から共産主義まで一律同じ、である。