メタタフィシカ第五章 形而上学の終焉と哲学 66
プラグマチズムや構造主義におんぶしてもらって、立て―組みの機関に身を委ねて、やっとウーシア(現有)を理解している。 そんな現代の常識は、未だヘーゲルやハイデガーの述べた時間の流れが、理解できていないと思う。 これ(プラグマチズムや構造主義)は先験的な実存が言い立てる形而上学への欲求であり、それは先験的誤謬でもあるのだが、人が人としてある限り無視できない誤謬である。 立て―組みの機関に身を委ねて、安心立命していたのでは、種族ごと、あっさり滅びるのは目に見えている。 人を人として立てているロゴスという「立て―組み=無知」に一切、お伺いを立てていないから、である。 プラグマチズムや構造主義は哲学から生まれてきたもの、なのだが、人々がその哲学、ということを誤解して、形而上学部分のみを評価しているから、である。 哲学者を殺して画家や詩人のアイデアに全てを委ね、いわば生存の責任を放棄しているからである。 何のために乖離を把握できるように訓練しているのか、意味が無くなる。 自分、というものが直面する今、があり、この今を通じて、失った過去を思い出し、未だ無い未来を「想定して、なんとその想定に頼って、生きている」だけである。 この、今、ということは、「此処に、ある」、ということである。 ハイデガーが述べた、今日の「人間」、である。 此処という、ホチという支点でしかない、空虚なヘーゲル的人間でもある。 時間や空間との関係を認識せずに、ただその「ある」との「関係からのみ」語ろうとしているのである。存在者の存在、造物主との関係から。 これはハイデガーが1歩1歩確かめながら辿った道である。この道は放棄された。