タ・フィシカ3 テクネーと技術22
テクネーは、この価値を創造する個々人の持つクラス(方枠)なのである。 ・・・であるということを命のモノとして原罪とともに立てー組む。 それゆえに、個々人の貧者のクラスであって、共有の理念ではない。 ましてや、技術ではないのである。 技術は常に企画=技術であり、実現して初めて出ー来た、と言えるものである。 ロケットを飛ばす前に、絶対の自信がある、などとは主張できないものなのである。 実現していなければ、未だ責任は果たされてはいない。理論が正しくても、いくらでも想定外の出来事が起こりうる。 先験的な誤謬が、必ず、ア・プリオリに、バーチャルに、ボンサンスに、あるからである。 テクネーは違う。 テクネーは出ー来る事、なので、現実に見出される露なコトでもある。 共有の理念ではなく、個々人の貧者のクラスのモノ、なのである。 他人の責任まで請け負った儲け話ではない。 しかしこれもまた、自分にはそれが絶対の真理であることがわかっている、などとは主張できないはずである。貧者のクラスのモノ、だからである。 自分にわかる、だけであって、他人に説明できない。 弁証して、理論化して、言い訳できないのである。 しかしテクネーが、それを弁償してくれる。 弁証(いいわけ)はできないが、出ー来て、弁償してくれる。 これをもって、「お前は心構えがよかったのだ」、そう歴史記述して教え諭してくれたのが伝統の技芸、なのである。 伝統の技芸は、だから史的唯物論、のレクチャーなのであると言ってもよい。但しロゴスではなくて、反ロゴスの、である。 詩作も、そうだろう。詩作で言い訳はできないが、出ー来て、償ってくれる。 だから人々は詩を書く。 テクネーが、価値を創造する個々人の持つクラス(方枠)であるがゆえに、テクネーのものとして詩が、出ー来る。 これは技術で詩が書ける、のとは大違いなのである。 詩を書く人なら、わかる、だろう。心構えが、根本的に違うのである。 文章は目的を見据えて書こうとするが、詩は感情で歌おうとする。 実はどちらも、まっとうには成功しないのである。 文章を生み出すのは個人の主体ではなくてロゴスであり、詩を歌い出すのもワタシの感情という明確なモノではなくてミュトス(反ロゴス)であるからである。