タ・フィシカ 4 第一章 情報工学の罠 1-12
自然環境における、モノというのには、情報はない、ということである。 自然環境というモノが、オートメーションへと立てー組まれ、無の上に立たされた自動企画にすぎない、からである。 だから悪霊は自然環境におけるモノゴトを論議させても、そのモノについてはさせない。ニヒリスムスには振り向かせない。 未知の素材だとか、未知の自然の構造だとか、あるいは神の予定調和だとか、さらには美、だとかをインフォアメイションするのである。 情報は、単に告げ知らせる、という意味もある。 情報という、この言葉自体が、ある種の罠、つまり立てー組まれた自動企画の罠、なのである。それを告げ口したいので、一人でギャアギャア騒いでいる。 ニヒリスムスへの罠なのであるが、自然環境における、モノというのには情報はないので、対象化認識できない。 だから基礎を素通りしてしまい、そこにあるモノが、つまり危機が見えないのである。 津波の高さが想定されて、人の命の危険がモノとの関係に摩り替えられ、忘れ去られる。 原子炉の立っている破砕帯が活断層か否かばかりの論議となり、原子炉の危険性そのものが無視される。 情報を工学的に利用する、ということがナニを意味するのか、そこに危険はないのか、ということが一切見えなくなってしまうのである。もともと未知のモノは見ない、からである。 見ないのは、自然環境における、モノというのには情報がないからである。 そこにあるのはオートメーション、ハイデガーの言うマシーナリー・テクニークがあるのみである。 情報というのはクラスが差し招く告げ知らせであって、そこに想定されていないクラスはインフォメイションされない。つげ口して知らされることはない。 人は自ら見ているものだけを、見ている。見えるのはモノのみである。 しかし人は単なる自然のモノではない。