タ・フィシカ4 第三章 貧者の一灯 3-15
ミメーシスは、現実であるコトを認識する、人の権能である。 天上にあるイデアが導いているとか、ミメーシスの諸形式があるとかいったことはどうでもいいことで、二人の哲学者の論議は、そんなこととは無縁、なのである。 特にアリストテレスの詩学は、詩の書き方とか演劇芸術における人心のつかみ方、とかいったコトとはまるで無縁な論議である。芸術のクラスへの対象的論議、ではないのである。 これがトポス(居場所)の論議であると、タ・フィシカの1巻で論述した記憶がある。 トピカ(弁論術)もそうであったし、ポエチカも、そもそもオルガノンも居場所の論議なのである。現実というウーシア(現有)の世界に迷い込んでいるので、露なコトへの帰路を求めての論議、なのである。 これを道具的関係の論議と解釈したら、ワヤである。知識を求めての哲学ではないのに知識が立てー組まれて、その知識に捕まってしまう。 ポイエシス(出-来るコト)を前にして、つまりミュトス(技芸-反ロゴス)の権能のモロモロを前にして、ロゴスへの方途として「露な場所」を見出すのが目的であって、形而上学ノートを求めているのではない。 何度も述べるが、詩の書き方とか上手な弁論の仕方なんぞは気にもしていない、のである。エンターテイメントとも無縁である。彼らは神官ではない。 これは哲学、なのである。露なコトに向き合う自然学、なのである。 人が持つ此処-露というモノ、つまり魂を露に剥いて、それを覆っている偽の知識を引き剥がすのが目的、なのである。 ロゴスに至ること、である。現実の、見え方としての本質(ヴェーゼン)ではなくて、自覚的本質(ベヴスト・ザイン)への方途である。対象として直面したらもちろん、無、である。