タ・フィシカ4 第六章 ロゴスとロジック 6-7
・・・であることの、形而上学の病は、この先験的な誤謬を無視して、この想定したイデー(理念)を絶対の真理だと思い込んでしまうことに始まる。天上のイデーと人智のイデアを混同してしまうのである。 それを許したのが、「存在者の存在」、という究極の理念だった。 別名、絶対の神、造物神である。世界中のほとんどの地域の人々が信仰している、病んだ神である。火あぶりが怖いが、はっきりと言う。病んだ神である。 日本人も、自ら信仰していた祟り神、太古のニップール市神殿に鎮座していた見えない神、主人リル神をはじめとする神々をいつしか置き忘れ、無意識のうちに、この死んだ造物神を崇めているのである。イデーを掲げ、アイデントな自我を立て、イメージに頼っていることが、その証拠である。 地球環境を論じ、宇宙や大自然を論じ、人の生命や心理の仕組みを論じているのが、その証拠である。 日本人のほとんどの人は誤解していると思うが、そもそも無宗教(レ・リジョンなし)では、科学技術の体系などは立たない。仏教や神道ではムリである(レ・リジョンではない)。 対象の一を、現実にあること、として確立しないことには、数学すら、立ちえない、からである。 形而上学を基礎に、人の捌きの庭をレ・リジョン(立て組みなおし=宗教)することによって、はじめて対象的認識とその知識体系が立つことができる。数学や、諸学が立てる。無宗教では立ち得ない。 対象的自然を、自然物であると、自らにおなじものであると、認識して、「立て組みなおし」しないことには、それを切り取り解明しての、工学知識立て、などはできない。 基礎には必ず「存在者の存在」が、要るのである。 それがイデー(理念)である。そのイデーが、問いも、疑問をも立てー組んだ、形而上学、である。 ニヒリスムスに取り付かれて、死んだ神、である。