粗雑な歴史観 4-14
しかし五世紀頃に蓬莱の地にたどりつくまで、祖先たちには苦難の数千年の放浪の旅があった。 旅のコースも、無数にあったと思われる。 極北のコースをたどったツングース系の人々もいたし、草原を行ったりきたりしていた、シウシン系のような人々もいた。さらに海路の倭人も。 イシン第二王朝が滅亡してのち、シュメールの神統を祭る人々は、アッシリアを包囲する国々に逃れた。 やがて、その中から、南のイスラエルと北のビバイニが台頭してくる。 しかしアッシリアの勢力は拡大する一方で、イスラエルとビバイニの同盟にバビロニアの地下のシュメール系諸勢力の支援があっても、これを抑えられなかった。 やがて相次いで敗北。 イスラエルは滅びて、貴族は全員虜囚となって連れ去られたのである。住民は殺されるか奴隷となって、あっさり滅亡。 建物はその基礎まで破壊され、畑には塩がまかれて、二度と住めないようにされたであろう。後の入植者ですら、差別された。 イスラエルと意見が合わずに離反していた南部のユダ国が、アッシリアに従属、朝貢して、かろうじて生き延びる。但し、のちにかれらもバビロニアの虜囚となって連れ去られたのである。 そのバビロン虜囚の間に、ユダ国は特異な一神教で団結し、ユダヤ人となった、と言っていいと思う。彼らを解放したのは寛大なペルシャ人である。 しかし今の現実主義者のユダたちは、ペルシャ人に恩義を感じている様子はない。 イスラエルの過酷な運命とともに、ビバイニもアッシリアの大軍に、国土を何度もじゅうりんされることとなる。 彼らは一度目は、首都に篭城して耐えた。 二度目は広い高原地帯の国内を延々と逃げ回って、最後にアッシリア軍をたたき出すことに成功した。 アッシリアが恐怖感を交えて命名した、ナイリの地ビバイニ王国の帝国名は、ウラルトゥである。今日では舌足らずだが。 二つの峰を持つ、アッシリア人には恐怖でも、私どもが見れば美しいコニーデの、火の山の名である。標高5,137 m、霊峰不二の山より遥かに高い。 遠い過去に、鳥の武人たちが漂着した山である。 この土地が、私どもの伝承が持つ高天原(タカマガハラ)だと思う。山幸彦、の方である。ひのもとの国なのである。