タ・フィシカ5覚書 時間 9
自分はそこで立ち止まり(エポケーし)、此処に露な場が勝手に現れ、時間的な憂慮が、神々の力相互の誓約の場を捌き出す。 あとは神々相互の誓約に「立会いさえすれば」、いいだけである。 これは古代人の「日常」だったんだろうと思う。 此処に露な場、という、それは捌きの庭、である。 宮廷という大昔の政治(まつりごと)は、この捌きの庭で、神々の力相互の誓約に[立ち会うこと]、だった。 それが、サニハという言葉で残っているのだが、神々を捌く、のではない。神と契約なんぞもしない。 神々の力を相互に捌いて拠りわけで、誓約の場を見出して、ただ場立ちしていた。 違和感を見出して、個々に時間を捌いて立ち会って、時間的な落としどころを見出す、と単純に考えて、いい。 言葉と女たち、シュメール語(アッカド語かも)で、エ・メ・サ・ル、というが、これが庭、ということだった。 イザイホーの儀式を考えていいと思う。 神への祈りの儀式、なのではない。神々の力相互の誓約のために、場立ちをしているだけ。 昔の証券取引所の場立ち、みたいなものである。今はコンピューターが取り仕切るので、場も立会いも見えない。 だから拠り代というモノ(対象物)が考え出されて、それを小型化した占いの筮竹も考え出されて、今や、悪魔的なテンソル時間まで考え出された。それで場立ちの場は見えなくなった。 テンソルの「量」というのはテンソルの「場」に過ぎないのだが、この場が筮竹と化したのである。見えていない指示があるだけの、目的に囚われた占いの場と化した。 量子力学は、高等数学を使った占いの場、なのである。 だからアインシュタインは、神はサイコロを振らない、と言った。 神ならぬ自分で振っておいて。だからアインシュタインは悪魔。 かくして誓約の場が見失われ、エ・ディンからの追放が起こった、のである。 神々相互の誓約に、場立、することが出来なくなってしまった。 拠り代という、命題として立てた印象のモノに、イメージに囚われるから。