タ・フィシカ5 第4章 表象、印象、イメージ、4
しかしそれでは、ファンタシアが、あまりにもかわいそう、である。 ファンタシアは日常の時間性の中にあるもの、であるが、idea, perceptio, repraesentatio、は無時間性の中にある。言わば空虚な企画理念に過ぎないから、である。 形而上学世界に囚われるあまり、ソフィストたちは無時間性の概念を導入してしまった。 つまり、悪魔を呼び込んでしまったのである。 idea, perceptio, repraesentatio、というこれらはなんら悪魔チックではないと思うかもしれない。 実際にこれらは合目的思惟における命題のごときものに過ぎず、なんら悪魔の指示をするものではない。 但し、これらにこだわることで、対象的認識の論議から本質を見出すアリストテレスの哲学論議とは、逆の、思惟のモーメントが生まれるのである。 アリストテレスが日常の時間から論議するのは、人がそのような思惟しか、できない、からである。印欧語で思惟する人は、世界の世界性を認識するような仕方でしか、思惟できない。 思惟は必ず立てー組みであり、合目的である。そんな形でしか、認識可能ではない。 しかし、それゆえに哲学が、あった、ある、のである。 ファンタシアを合目的に企画すれば、そこにidea, perceptio, repraesentatioという、分裂した(悪魔的に想定可能な)権能が働いているというコトがわかる。その、ために(ある)。 ただ、idea, perceptio、というのは納得できる。しかしrepraesentatioという恩寵はいらん、と思うが。 これはむしろideaと perceptioの間に出来る、埋めることのできない隙間を覆い隠すために、あとから据えられた、エンテレケイア(十全な思惟主体)の与える予定調和なのである。 別の目的が忍び込んで、その目的のために持ってきた概念であるように思う。 そのためファンタシアが忘れ去られて別物になる。 かわいそうな境遇に置かれただけでなく、そこに持ってこられたイデアや表象の概念もまた、無時間性に皮を剥がれて、気の毒な状況に陥った。因幡の白兎同然。 イデアは、その天上での権能をすべて奪われ、人の側の突然のアイデアの閃きと化した。 表象もまた、神的な力そのものであることを失い、上っ面を写すだけの、いわば中身が無い型枠の形と化してしまった。動詞であることを失った。 結局は、「神の恩寵」が、そのすべての神的な部分を担う、詐欺なのである。 過去のコレはナニのイメージか? 北園斜面のようだが。 オイラのページも、さっきハロウインの悪魔のイメージにのっとられていた。