十戒は、戒めでなくちゃならん
既成の十戒には、戒めではない、へんなものが紛れ込んでいる。 現実がある、ことを戒めるのに、唯一のだとか、主だとか、へんな概念を導入している。キリスト教側も、ユダヤ教側も。 全体、だとか唯一、だとか主、といった概念は、これは架空の命題に過ぎず、神の名を作り出そうとする戒めを破った、むしろ十戒で禁止された行為に、ほかならない。 予定と選びが、形而上学的理念や構造として人の現実認識を導いてしまうと、その禁止された行為が、経験より先に立たねばならなくなる。 名の無いはずの神に、特定の名を与え、イメージでもって対象化認識し、そのイメージのイコンを、つまり魂のイメージ像を、ニヒルな先験的論理で立てないといけなくなるのである。 聖別が必要となり、造物主が必要となり、宇宙の真理が必要となってくる。 結果的に、ニヒリスムスが口を開けて待っている。 言うならば、人は人の権限を越えてアイデンチチイを立て、絶対の神と相対峙せねばならなくなる。 しかし死すべき人に、そんな権限も無ければ能力も無い。 神と直面すれば、人は単に破滅するだけだろう。 だから十戒は、神と直面して破滅しないように、必ず人への戒めとして伝えられた。 人の分限を超えぬように。 ニヒリスムスへと落ちこまぬように。 汝この世に神の力があることを忘るなかれ 汝崇拝するもののイメージを、しかし勝手に作るなかれ 汝神に名を与え、みだりに唱えることで習慣づけることもなかれ 汝にも必ず、敬うべき父母がある。そのことを忘れる無かれ 汝殺す無かれ 汝姦淫するなかれ 汝盗む無かれ 汝偽証するなかれ 汝隣人をむさぼるなかれ 汝にも安息の日がくることを、わすれる無かれ これが本来の姿だと思う。つまりこれは、宗教の禁止である。 易しい言葉で書くと、こうなる。 カネに執着して、尋ねてくる神を忘れちゃいかんよ 幻影に幻惑されて、崇拝物を立てちゃいかんよ 立てた崇拝物に名をつけて、お題目にして唱えちゃいかんよ 両親から生まれたことすら忘れて、権力の虜になっちゃいかんよ 公務員だからとか、兵士だからとか言って、殺人を正当化しちゃいかんよ カネがあるからとか、カイショがあるからとかいって、当然不倫はあかんよ 正当な契約だとかいって、他人の稼ぎをピンハネしちゃいかんよ 偽の証言は陰謀の証拠、ウソは泥棒の始まりだから、いかんよ。 隣のモノはオイラのものにしておいて、オイラのものはおいらのもの、はいかんよ。 予定も選びもこの世にはないが、あんたかて死ぬんや、それ忘れてカネに執着してはいかんよ 安息日は、あんたが選ばれし予定日ではない。有限な責任の範囲外の翌日、というだけ。 ありてあることも、お休みになる。 ありてあることに、予定や選びに、こだわっちゃいかんよ、という最も重要な戒めだと思う。