新説かぐやひめの物語り b24
百済の本拠地には、白村江という入り江のようなものは無い。、白江(現在は錦江)という大きな川があっただけ。 唐帝国軍は7,000名、170余隻の水軍(北倭軍=シウシン軍)勢力である。 新羅側の陸軍も居た、ということになっている(実在感は希薄だが)。 中国側の水軍のそれは戦闘艦艇(ガレー船)ばかりではなくて、ずっと大型の輸送船が多数含まれていたことがわかっている。 戦争の直接の指揮官は、この時の百済駐屯司令官ではなくて、劉仁軌、杜爽、そして百済王子の扶余隆という男。 この三人が中国軍を指揮して戦争し、敵倭船(水軍の船)を400隻を焼いたとされている。 殺した人数は、唐側の文書には無い。 そしてこの、同じ、倭船というのは、過去の百済滅亡時にも、出てくるのである。 つまり倭船というのは、水軍、というだけの意味である。 中国軍もまたシウシン軍だから、北倭軍だったのである。 白村江で戦った敵が列島からの軍かどうかは、当時の中国側には、一切わからない。勝って後に判明しただけ。 日本書紀に日本軍として記された列島勢力軍の方は、4万2千の日本軍。 ホンマカネ、と言いたい。 これではまるで、ミッドウエーじゃんか。 斉明が率いていた、日本軍のガレー船部隊は沿岸用の小船なので、ここへ送れたはずは絶対無いのである。 だから、これは正しくは日本軍ではなくて、筑紫の持っていた倭国海軍。 しかも、ほんまかね??? 資料*<第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。唐は劉仁願将軍に王都泗?(しび、サビ)城を守備させ、王文度(おうぶんたく)を熊津都督として派遣した 9月3日に劉仁願将軍が泗?城に駐屯す 王文度も着任後に急死>