対象認識について 第二章 2-5 主体・客体
主体・客体問題は、だから人の感性における主体・客体、分裂問題として、自己反省のうちに、哲学的な[悪霊の否定の言葉で]取り上げることができる。 肯定の理念では、モノに覆われて見えなくなる。 それは分裂した図式、なんだから。 自我の皮を剥いてみればわかること。芯なんぞ無いし、目的を持った自我なんて、いっぱいある。どいつが本物かも、わかんない。 マトリクス世界で体系だてて、つまり形而上学やって世界像築いてもダメである。 主体・客体、分裂問題の核心は「人の有限な感性」、ということである。 絶対肯定の神の目、じゃなくて、「明晰判明に露」、だということ。隠し立てない。 数学的な「解」や、論理的な「理解」に、一見似ている。 しかし数学は、身体を基にした命題定義がなければ成り立たないし、論理も命題定義なく成り立つことは無い。否定の声聞いたらダメだし、肯定の声聞くと、命題の立てた世界像にとっつかまる。 数学の彼方に形而上学やって、純粋経験したてて、絶対命題を据えようとしてもムダである。 なぜかというと、必ず悪霊があれやこれや、指図してくるからである。 デカルトが思惟したように、悪霊は遠ざけ、命題には拘らず、判断も停止して、たたずんで見る、しかない。 主体・客体、分裂問題の核心は「人の有限な感性」なんだから、天才(選ばれた人に対してではなく、天から万人に与えられる、というカント的な意味)に拘っていてはダメである。 自分の過去を引きずり出して、反省することで解かってくる、のみである。 時間とは、空間とは何であるか。 自分の分限を決めている感性の「形式」だと、わかってくるはず。 対象認識できないすべてのモノは、かならずこの自分の分限に、それが背負っている「責任」に負うていることがわかってくるはず。 共有の分限ではなくて享有の分限。 だから、解かっていても、語れないのである。言葉は共有のモノだから。 主体・客体の問題は、分裂した図式のモノなんだと、感性のモノなんだということに50を過ぎて気がつき、そのころデカルト観が変わった。 目的を隠した形而上学信奉者たちが、そうやって哲学を錬金術に貶めていることもわかってきた。 「言葉は存在(有)の家である」、が、自分に対しては享有であっても、他者に対しては、必ず共有なのである。 共有世界で肯定の理念に囚われると、感性の形式に拠りかかっている存在(有)は、隠れて見えなくなる。