対象認識について 第三章 時間・空間 3-7
どう誤っているのか。 個々人の時間・空間の形式を、個人が享有するわかること、だとは思っていない。 神の世界で人々に共有される、絶対精神や美だと思っているのである。 つまりフィヒテやシェリングがやった誤りを、アーベントラント(西洋)の社会全体で無自覚に引きずり、引き受けてしまっているのである。 デカルトが気がついた思惟の延長を、人々は利用するが享有は、しない。 役に立つモノを漁るが、役立たないものには見向きもしない。 共有社会の基礎にあるものは、個々人の享有にある時間・空間の形式である。 これ自体は役立たない、役立てられない暗いモノである。 個人が自分で解からねば、共有の理念なんて悪霊と化す。 それを防ぐために教育があるのだが、この教育という理念も悪霊化してしまっている。 オイラたちの世界には悪霊が満ちていて、日夜、こいつらに取り囲まれてもがいているのである。 共有世界の中で悪霊の指示には従うが、自分自身で解かったコトには、従わない。 コレは自分を反省して言っているのである。他人を非難してるんじゃない。 儲からないし、得しないし、馬鹿にされる、からそうするのである。 儲けは人の世の諸々である。早い話、生きて生活していくには必定のもの。 得も、徳と同じもので、解くさいに得られる理解を対象化認識して、価値化したモノである。 どちらも享有物なのに、それを共有物として扱い、価値を付与することで悪霊化する。 カチカチ山のタヌキなのに、価値が入り込んで、真実が見えなくなるのに。 絶対精神や美といったモノに、価値は無い。 個々人が享有する、解かる、コトがあるにすぎない。 共有社会の基礎にあるのは、個々人の享有にある時間・空間の形式。それが、そのインスタンスの権能ゆえに価値化されて、イデアならぬ、イメージ化されたイコンが居座って、悪霊と化す。 その悪霊が、カチカチと主張してしまうのである。 オイラたちはその悪霊に突き動かされて、詐欺を働いてでも稼ごうとする。 フィヒテやシェリングがやった誤りを正さずに、突っ走るから、そうなる。 個々人の時間・空間の形式を、個人が享有するわかること、だとは思わず、神の世界で人々に共有される、絶対精神や美だと思っているから、そうなるのである。 絵画美術が栄えたのは、絶対精神や美が言われだして以降の時代のこと。 生きるために働く、その労働が奴隷化されて、カチカチ悪霊に売り飛ばされるようになって以降の話。だからまあ、大昔からのことなんだが。 それがハッキリしてきたのは西洋の奴隷社会の近代だ、ということ。 イルミナティたちが世間の表に出てきたころと一致する。 教育は今日、産学協同化されて悪霊の奴隷と化した。 これも個人が自分で解からないまま、カチカチ山のタヌキを突き動かす、共有の理念を学んだ結果である。 個々人の時間・空間の形式を、個人が享有するわかること、だとは思っていない。 神の世界で人々に共有される、絶対精神や美だと思っているから、そうなったのである。