対象認識について第四章 客観的感情 4-9
構想力は感性で出来ており、その形容や力関係は、既成のクラスを破壊することで発揮される。 繰り返しは確かに、その力を対象認識して見るためには重要な要素である。しかし、しそれが目的じゃあない。反復は、目的にはなりえない。 インスタンスが目的となってしまうのは、悪霊に捕まるから、である。 意図して、その仕組みを利用し作り上げたのがオートメーションである。 しかし道具的に悪霊に関わるものは、悪霊の道具奴隷となるしかない。 記憶力も感性なんだが、感性的なものごとにこだわると、詠嘆で解消させて終わってしまうのでなければ、記憶を道具に仕立て、その奴隷と化す。 役に立つ物事にするには、イメージにするしかないのである。感性的要素を、その枠に固定して、魂と直結させてしまう。 現代の人々は記憶から感性の過去を追放して、結果的に無時間のイメージの奴隷となった。 記憶力は、それで発揮されるが、感性が押し込められて、もがいている。 ポイエシスの発露によるカタルーシスに、ではなく、インスタンスするクラスのカタストロフィーと化すしかない。 絵画芸術(アートつまり、アルス=技術)は、この不幸な生い立ちを背負って登場したもの。 イメージ(描かれたピクチャー)という悪霊の支配に不服の人たちが、詠嘆と役立ちとの狭間で構想力を守って戦っているのである。 芸術は爆発なんぞではなく、心理学でも、数学でもない。 むしろ、爆発しようとする悪霊と戦っているポイエシスの感性、なのである。ミュトスの陣営にある。 イメージと、アートとオートメーションの、この相互関係は、常識の世界では理解されていない。オイラの前作を参照されたい。 道具的に悪霊に関わるものは、悪霊の道具奴隷となる。 理念を磨いて利用しようとするものは、その理念の奴隷となる。イメージが、いい例。 感性で型枠が出来ているのに、その感性を一切見えなくさせて、心構えさせる。 つまりテクネーへと、導く。(テクネーは、技術ではなく、心構え) それで記憶力やインスタンス技術は仕上がるが、一緒に感性を押し込めてしまったら、反乱が起きるのである。 (共有世界の)人は、享有の感性で出ー来た、生き物である。 ギリシャ悲劇の場ではオルガンを弾き歌い、悲劇に破綻して叫ぶ存在。オルガノンという、特殊な対象認識の世界の生き物。 人生という曲を演奏するための、道具じゃないんである。 ましてや、舞台装置でせりあがってくる、機械仕掛けの神のための小道具立役者じゃない。