蛇足 対象認識と宗教 7
ところで最近、長年疑問に思っていたエクジステンツの訳語について、疑問が一つ解消できた。 これは、現象学を学んだ仏文学者の陰謀臭いと。 なんで一般常識ではエクジステンツがジツゾンとなってしまうのか、薄々だが解かってきた。 ジツゾンて、常識世界では現実存在のことだそうで。 アホラシーと、一瞬思ったけど。 エクジステンツを現実存在のことだと読んだら、ハイデガーの言うエクジステンツとかは決定的に、おかしなものになる、からだ。 どこにもない未到来の中空の場所に、空虚な目的企画を投企する、という意味になってしまう。ニヒリスムス志向だとされてしまう。 そうじゃない。 ハイデガーが企画したのはメンシェン(人間)という「共有存在の時熟の場の企画」であって、先生は、いわば宗教的儀式の場を求めていた。 みつからずに、自分の乗っていたヘーゲル哲学のほうが破綻したけど。 それが、ナチのトゥーレ思想と深く関わっている、ということの真相。 ヘルダリンが、自分の父祖たちの感性の居場所を求めて、ネッカー川の畔をさまよったようなもの。 エク・ジステンツというのは、現実存在の意味のジツゾンとは、まったく逆である。 現実から、出てー立つということを言う。 たしかハイデガーは、エント・シュテッテンという言い方をして解説してたと思う。 日常の現実から、そとへ出てー立つ、だから日本語に直せば、脱存。 必ず有る、そのもの(対象認識)は、怪しげな自分の感性が仕切った現実である。 現に必ず対象の認識が「ある」から「現実」という。エクジステンツとは無関係。 現実は自分の過去の反省であるから、厳密を目指した現象だとか、神の前の超越的自己といった「へん」なものは、そこには、ない。 必ず実在を伴う、日常の自己認識のこと。 空虚な企画などは、どこにも無い。 逆に、エクジステンツ(脱存)には、瞬間の空虚に見える思惟主体や投企の影はあっても、現実は無いと言える。 しかしそこから、出てー立つのは空虚な企画などではなくて、自分の日常の「ある」を支えている「感情のクラス」、つまり実在を図式化形成する型枠。 時間・空間のこと。 エクジステンツには時間・空間がないように見えても、本当は、あるのだ。 逆に現実では、時間・空間という直感の形式は、ソレが仕切っているんだから自分で自分は絶対に見えない。メー・オン(無)である。 西洋人であるハイデガー先生には空間認識が欠けているので、そこに、存在という神的命題が居座ったわけである。 同様に、オイラたち東洋人には時間認識が欠けるので、存在者の存在という神が見えず、翻訳が、おかしなものになる。 オイラたちに時熟がワカランのは、このこと。 時間・空間を一元的に取り扱えるのは、空想の神だけだろう。 それこそヘーゲル哲学導入して、純粋経験という大風呂敷でも広げないことには、この時間と空間という乖離は、包み込めない。 形而上学が、弁証できない。 数学の命題提示が、これを、いとも簡単にやってしまうのは、空想の神だからである。 そもそも、数学の客観認識では、対象認識ではなくて、ジツゾンでもダツゾンでもない。 あえて言うなら客観的認識として投企される範疇としてのアルゴリズム。 独自に定義命題化された、時間・空間なのだ。 空想の数を扱う数学だから許されることで、これを宗教がやったら、死に至る病となる。