用語の整理9 図式
図式(シェーマ)というのは文字通り、図示された形式のことである。 図示された形式が表現している(ナニカ他の)もの、ではないので要注意。 むしろ図示された表現として「身構えてる自らの分限」のこと。 共有概念ではなくて、必ず実在概念、つまり「個人の感性」なのである。 (実在は必ず個人に、その感性で持って対応する) 図式という形式は、だから、必ず時間・空間で「ある(在)」。 時間・空間と無縁な図式なんぞは、ありえない。 この時間・空間を逆立ちさせて、先に命題立てて勝手に定義しておいて、その定義に従って裏返しにして、(共有の仮想世界に)図式化されたもののことを、方程式という。 ユークリッド空間は、ありえない平面だし、リーマン空間は、ありえない三次元。 これは数学などで使う。 時間・空間で出ー来ているのが図式だが、逆に、時間・空間から作り出されるものが方程式。つまり空間構え、時間構えを持ったインスタンスのための、方途の形式が方程式なのである。 図式はそれに対し、あくまで感性的な直感の、形式であるにすぎない。 ここで、この感性的な方途を持たない、たとえば中性的な熱力学的物理力といったものを、先に構想して立ててしまうと、悪魔が居座っているかのように見える、わけである。 日本語が、ぜんぶ副詞にしてお見通しの、すばらしい表現。 おいらたちはしかし今日、哲学を殺し、目的を持って対象物と接する、その訓練ばかりしている。自然という副詞も名詞にしてしまいやがった。 なので、徳や得のない、儲けのない、この手の話が、つかみづらいと思う。 構想してモノを造ろうとは図るが、その構想力自身を反省することは「ない」、からだ。 図式は、発露する構想力なのだが、これを中性的に論議対象に据えることは、哲学的な「否定の契機」なしにはできない。悪霊(ダイモニオン)の否定の声が聞こえないものには、無縁。 つまり図式という概念は、哲学だけの(その無知の知の実践上の)、構想力の概念なのである。一般の共有知識ではないので、これを、いい加減にしてはいけない。 これを、哲学ではない一般の肯定世界のモノや知識として捉えると、メ・タ・モルフォーゼという神話を、中性的に論議対象に据えるようなことになる。 言わば、心理学や宇宙論、神学などに落ち込むことになるわけだ。 つまり、形而上学になってしまう。 リュケイオンヤアカデメイアでは哲学の一般教養だったはずの物理学も、錬金術が忍び込んで怪しげなものになった。 さらに現代では、おかしなユダの悪魔によって、時空連続体だのという、宇宙論に組み込まれてしまったわけである。 確かにそれで原爆は作れたが。それが目的だったんだろ? カント先生は、この図式を正しく、哲学としての構想力として捉えていた。 図式=構想力。 しかも天から才能を賦与された時間であると、それを述べた。 だが、正確には、哲学における時間・空間(分裂)である、と、述べるべきだと思う。 個人だけが持つ実在概念であるから、これは力関係・形容、(分裂)でも、いいわけである。こちらはもっと古い、アリストテレスの論議となる。 オイラは、卒論でこの図式問題に引っかかって、若くして泥沼に沈没したわけだ。 だが、今思えば、哲学という「無知の知の理解」が中途半端だった。 図式=構想力の問題論議は、必ず「自分の無知の知の理解を経た上で」なされるべきである。 ハイデガー先生はこの問題を、「カントと形而上学の問題(カント ウント ダス プロブレン デア メタフィジーク)」、としてまとめてくれている。 形而上学上の問題、じゃないんである。 つい形而上学に落ち込んで考えてしまう、(陰謀によって歪められた)哲学の命運が引きずり込まれた泥沼が見えてくる、アルケーの場である構想力(アイン ビルドゥングス クラフト)の問題。 オイラが、その場で哲学を失わずに済んだのは、ヤスパース先生の哲学入門書という手助けがあったからだ。ずっとのちに、片足半ば這い上がれたと自覚したのは、メーという、太古の先祖が持っていた概念に出会ってから。(メ・についての試論) 哲学のメー・オン(無)を、哲学という無知の知を理解せずに、純粋理性批判(クリチーク デア ライネン フェアヌンフト)という、人類の持つ最高峰に取り組むというのは、無謀というものである。ミイラ取りが、あっさりミイラになってポアされる。