用語の整理13 エイドス・エネルゲイア
さしあたり、形容判断(エイドス)・力関係理解(エネルゲイア)という分裂の背後にある、空間認識・時間理解の乖離について、説明しておきたい。 アリストテレス先生が見出した、認識の先験的乖離は、有限な人ゆえの、いわば感性的なありかたのゆえんである。だが、これがオイラたちの認識を形成している当のモノでもある。 対象的認識における破綻が、オイラたちの認識の基礎を形成している。 宇宙の真実とか、神の実在、といった形而上学上のモノではなくて、ありふれた日常を形成している、人の自己認識といったものに、この破綻がある。 端的に言うと、時間・空間に破綻している。 空間は、人の感性がこさえる、空間認識形成による対象認識のための判断、である。 変容の入れ物、ではないのである。 しかしこれは感性の形式。 感性が図式化する、入れ物は確かに出来ているように見えているが、カラッポなのである。 空間は、その入れ物を意味しない。 オイラたちの日本語では、カラッポのことをこそ、意味する。オイラたちの心が、その枠を造ったカラッポ。 西洋人にはたぶん、この認識がないか弱いので、デカルトなんかも、時間を介入させた延長(レス エクステンサ)として、これをとらえていたんだと思う。 だから空間は、逆に思惟主体として在る時間を、きっちり認識できない日本人が考えているように、カラッポで出来ているのではない。 そうではなくて、対象判断の破綻形式の一つ、空間形成の図式なのである。 日本人はたぶん、レス・コギタンスとしてある時間を、空間的にしか認識できていない。 これで力関係理解抜きに(カラッポにして空間的に)形容することが出来る、というだけのこと。 破綻しているがゆえに、カラッポとなる。 しかし現実があるのだから、そこには時間がつまっている(はず)、つまりデカルトが言うとおり、延長されているはずなんだが。 この延長概念をも、西洋人は空間理解ができないので、つい力関係理解抜きで考えてしまう。 だから、カラッポになってるニヒル志向である、そのことに思い至らないのだろう。 一方時間は、時間という力関係から、対象認識を責任として引き受ける役割のもの。 実在認識、させるための形式、なのである。 その力関係を反省させるための図式。つまり構想力。 まあ。空間もおなじものだが。これ(構想力)で力関係を持てる。 予定するためのモンじゃなくて、図式を反省させるための形式なのである。 これも直感の形式。 ニヒリスムスに落ち込んだ人は、過去を反省できないので、ありもせん未来を予定するのみとなる。 つまり、自分という感性の形式で在る空間も時間も見失って、何もない現実にスピリッツ精神だけで、超越して立とう、とするのだ。偽ユダたちがこれに落ち込んでいる。 物理学の時間空間なども、命題と定義で、架空の時空に立たされている。 だが、その命題と定義の世界を現実だと思い込んでしまうと、これと同じことになるのである。 命題には拘ってはならないのに。 ダツゾン(エクジステンツ)、ではなく、精神化した論理のみで時間・空間抜きに(自分と言う身体を)超越(エクジステンツ)することになる。 西田先生の哲学世界などは、まさに、コレ。コレに足をとられて、オイラは哲学の泥沼に踏み込んだのだが。 自分の分限を捨てて、現実の背後に一元論で、客観的真理がある、なんて思い込んでしまうのもまさに同じ、コレ。 イデア論の背後に、認識の洞窟での火の影を見ている不完全な自己認識を反省せずに、理想世界がある、なんて思い込んでしまうのも、じつは、これ。 形而上学は、自分という時空の分限を超越して、そう考える。 人の過去と言う現実を取り込んで、それをイメージにして、超越して未来志向にさせてニヒルな時空に立たせてしまう。 しかし人の現実には、空間認識・時間理解の乖離が、必ずあるのだ。 これは先験的認識と経験的認識の乖離であるし、同時に形容と力関係の乖離でもある。 この破綻したヴァーチャリター(ドゥンス・スコトゥス先生の論議)こそが、反省された現実であり、哲学のアルケーなんだと(自分の過去を)思い出すべき。 アルケーは、間違っても原理じゃあない。始原でもない。 エイドス・エネルゲイアの破綻をみせる、哲学の始源である。