対象認識について(推敲)第四章 客観的感情 4-4
客観的認識から、(人の)感情を追放したのは誰か。 これは人間疎外をやったのは誰か、と問えばいい。 感情のある人間を、人材にしてしまった人々を、思い出せばいい。 奴隷業者、なのである。 人を人材にして扱う連中。 雇用される人は、労働力を利用されるだけの資材ではないし、そのために仕立てられる自然物素材でもない。 人格を持つ人であって、素材なんぞではない。 客観化した共有感情は、誰にでも確かに、ある。 だが、そこで自分の享有を見つけず、形式にのみ拘るのは、未来に企画立てた命題に拘るのと同じ。 実はこれを、儀式や儀礼、諸文化に直面した、ほとんどの人が、現代では無意識にやってしまう。 意地悪して後輩に教えない先輩が居たり、自分が不勉強の儀式や儀礼の失敗を、刃傷沙汰にしてしまうアホもいる。 これも他人を批判しているのではなくて、オイラの過去の態度を反省しているのである。 客観的認識から(人の)感情を追放するのは、もはや習慣になってしまっている。 形式を利用して儲けようとする、陰謀の悪意の仕業であるのだが、それがわかっていない。 人を客観対象化し、感情を持つ生き物であることを、心理学的に、特定の技術からのみ扱う。 形而上学的意図を隠して、操作し、操ろうとする。 この意図を隠す悪意のことを、理念、と呼ぶのである。 つまりイデーと言う悪霊が、その理念である。 目的が明確でないのに、先例や伝統を持ち出してくる、儀式や儀礼がある。 そのような、はっきり見えてない形式は、ほとんどすべて、この陰謀の理念に成り果てているのだ。 先例や伝統がみつからない場合には、もっと身近な道具的関係を持ち出してしまう。 米国に渡ったヘーゲル主義者たちが、カトリックに反抗するためにコレをやった。 わが国では、陪審員制度つくっときながら、裁判所のトップたちも堂々とやっとる。 要領だけで、社会の上層にのし上がってきたことの証拠を、モロに見せとる。 人を人材にして道具的に扱おうとする人は、しかし、その道具に扱われることになるのだ。 先例を法にして形式で扱おうとする人は、その形式に扱われる。 いつも持ち出すが、チェーンソーで人の首を飛ばそうとするやつは、そのチェーンソーに使われている、ことになる。 仮想通貨で詐欺をやろうとする人は、その仮想通貨によって、詐欺師に落とされる。 もともと、人の感情で、できている勘定。 なのに、その形式から人間を疎外してしてしまうので、無感情の数学勘定となる。 それによって、その理念は、虚無のマトリクス世界で、行き詰る。 これがニヒリスムスである。 虚無主義。 自分は感情を享有し、世間は感情を共有するのだ、という些細なことを忘れる。 すると、人の作り出した形式や儀式といった、悪意で命題化された理念が悪霊と化して、人々を襲うのである。 挙句の果ては銃で殺傷し、爆弾で吹っ飛ばす、ガソリンで焼く。 みんな、理念という悪霊の仕業なのだ。 客観的認識から(人の)感情を追放したのは誰か。 それを忘れてはならない。 対象を立ててやる客観的認識は、人の感情そのもので出来ている。 インスタンス用の型枠であり、これこそが時間・空間、なのである。 幽玄であっても、・・・である、享有、共有のモノであって、道具的に未来へと投企して立てられた、陰謀の理念なんぞではない。 なのになぜ。