蛇足(推敲)対象認識と宗教 8
現代は、その死に至る病が蔓延しきった時代。 形而上学的な対象認識教義が、(目的を隠した)科学技術の名の下に燦然と輝いて居座っている。 いわば普遍媒介者である空気を輝かせて、現象(エア・シャイヌング)があるのだから存在があるのだと、虚無が自己主張している時代。 ほんとうはぜんぶ、あなたの命の感性が見せている、限られた時間・空間の、破綻したウロボロスな認識の生んだもの。 あからさまなもの、なのに。 その「あからさま」すら、自然という対象物にしてしまった。 対象の、モノ自体があり、大自然、大宇宙という未知の巨大な存在があり、どこかに摂理の神が、データベースのカーネルが采配してるんだという、へんな形而上学が幅を利かせている。 そいつらが全盛の時代なのである。 20世紀にハイデガー先生の警告した、まさに世界像の時代。 大自然という、像化された自然物まで出来てしまった。 そんな時代には、宗教家が誠実であることが求められる。 誰に対して誠実か、が問題である。 おかしげな神に誠実で、教義に反する人の人殺し、をやっとったんでは、共有にも享有にも、誠実とは言わんのである。 教義を明確にして、公共性に問題の無い教義に誠実、ということであれば、カルト問題は起きない。 しかし詐欺師の多くは教義の核心を秘密にして、いわば密教化してしまう。 なので、カーネルのブラックボックスが見えてこんのである。 人の感性や図式の働きも同じ。 範疇化してカルトで固めることは阻止せねばならん。 だが、構想力の核心は、自分のこころの核心であるだけに、常に闇なのだ。 だから輝く神を居座らせる人々が、幅を利かせる。 イコン化して描いて、自分の魂なのに、これを人間の魂なんだと言い換えて、素朴な人々相手に詐欺をやる。 現象があるのだから存在があるのだ、というのは詐欺である。 対象を据えた自己認識を口実に、客観的公共物が絶対である、その根拠に据えようとしている、だけのことである。 「客観的公共物が絶対に正しい」なんてことは起こりえない。 その客観を支える感性が司って反省した、主観的な自己認識は誤謬だらけである、のが普通。 絶対に正しいのは、目的に沿って切り取られた素材の理念(イデー)の、目的に対する言い訳であって、空想のイデアではないのである。 絶対目的が、正しく命題定義されていないことには、絶対に正しいなんて言えない。 人は、エンテレケイアなイデアを認識できない。 しかもその正しさの絶対は、数学のように、架空の定理や命題の、正確さの枠の中でしか成り立たない。 全体が定義できる、黒体の範疇でしか成り立たないのだ。 その架空の定理や命題の枠の中に、あらゆるものを包み込んで、形而上学的な対象認識教義にして見せようとしている。 それが、現代の詐欺。 宗教が絡む形而上学と言っていい。 過去には、パン・タ・ライ(万物は流れる)だとか、ヘン・カイ・パン(一にして全て)だとか述べてた。 これは古代ヘラスの、自然学者たちの述べた詐欺。 アリストテレスが徹底批判した。 彼らは自然学者という詐欺師にすぎんとして、哲学とは決別させた。 しかしユダヤ人たちが学問世界に介入して、これを再度誤魔化してしまった。 大自然を対象認識する、とか、環境を対象認識するとか、大宇宙の成り立ちを考えるとかも、同様の詐欺である。 これらは、ありてある絶対の神を対象認識する、そのことと同じになる。 目的を隠した陰謀やって、死に至る病へと人を導く。 超エリート・イルミナティーたちの、死に至る病。 その病を導き、蔓延させる、ある種の宗教的詐欺なのである。