蛇足の足きり 対象とは 8(推敲)
世間の未来志向というものが、人々の政治経済というものを狂わせてきた。 それは間違いない。 政治経済というのは、政治屋の陰謀と経済屋の陰謀を足したもの、じゃない。 共有のお祭りと、欲望でできたお金の仕組みを足したもの、でもない。 単に「人が、自分の暮らしを立てること」、を政治経済と言う。 共有権力がモトじゃなくて、個々人の享有する政治経済が、もとである。 マルクスはこれを、人の労働だと言ったわけだ。 欲望が元だと言うやつは、モナドロジーに毒されてるわけである。 それを、共有のものと見立てて集合させての、社会的な政治経済がある。 しかし人々は、自分の暮らしを立てていく、その過去の反省をしないままであるのが普通。 その上、空虚な未来に無・時間空間を対象立てている。 これが未来志向の現状の姿である。 同様に、選手個人個人が、自分とチームの栄光のために競技で競う。 これも、政治経済の世界の、こちらは奴隷の関心をそらせる目的の陰謀の出来事。 但しエンターテイメントという、観衆との道具的関係ではなくて、演劇的関係があっての、いわば共有の部分が大きい。 これも政治経済なのである。 勝利したいという未来志向によって、ときに、このエンターテイメントの場が、ぶち壊される。 共有のエンターテイメントじゃなくなって、個人の権力闘争と化すわけだ。 勝つために手段を選ばなくなる。 脇役の監督やコーチが主人面して表に出てきて、選手を奴隷化する。 エンターテイメントを構成する観客大衆との演劇関係を、ぶち壊してしまうのだ。 孤独なスポーツ競技も、必ず共有のエンターテイメントなのである。 観客という大衆が居て、選手の栄光は支えられている。 観客大衆との、共有の演劇関係がなければ、個人スポーツも、その存在理由は無くなるのである。 監督個人の権力や、カネ儲け企画、だけのものになってしまう。 監督個人の意図で、特に選手に、その選手としての力を振るわせない、というのがいかん。最悪だろ。 エンターテイメントという共有の政治経済の場が、個人の経済目的の政治の場と化してしまっていくのだ。 お店と、客の関係も同じだろう。 未来志向になってしまえば、過去の客は無視される。 ほんとうは過去の出来事が、その政治経済の場を支えている、のに。 それが見えんなる。 この未来志向の危険性は、たとえば自然を対象認識の命題モノとみなしているオイラたちの、日常がやられてる破綻問題でもある。 サイバネチクス思想が、こんなとこにまで浸透し、オイラたちの日常を破壊しつつあるのだ。 オイラの非常識な論議に、ここまでついてこれた人なら、次の事柄は確認済みのはず。 1:モノ自体(ディングアンジッヒ)は存在しない。 2:モノは必ず、オイラという自分の実在が、その命の責任で関与している「個人の実在のモノ」である。共有の実在がある、と言えるのは帰依した宗教の教会の場(カルトのマトリクス内部で)のみ。 3:そのモノは「過去の時間・空間の形式で」対象認識、つまり反省でできているので、空虚な未来には決して共有され得、無い。 この、「実在の過去の」時間・空間の形式を、未来へと延長想定企画し、存在しないものを、あるはずだ、といって詐欺をやるのがヘーゲル主義なのである。 イメージだとか、ヴィジョンだとかを形而上学的に駆使して、やる。 無の哲学者ヘーゲルは、必ずしもヘーゲル主義者では無いのだが。 だが、社会的に学者間で語られている弁証法はヘーゲル主義。 別名、文献学用語で、ニヒリスムスともいう。 この空虚な未来志向の詐欺が、今日のオイラたちが破綻に直面している、この文明の真相。 文明志向扇動詐欺、であり、そのゲシックなのである。 ゲシェーエン(出来事)ではなくて、ゲシック(存在論的な生起の歴史=ぶり返す病)。 未来志向というそのこと、が根源となって呼び戻された、実在の病いなのである。