用語の整理(推敲)17-2 ポイエシス2
このポイエシスが、オイラたちの現実認識や情緒的な日常活動に、モロに関与している。 にもかかわらず、この分野の探求はアリストテレス以降、ロクに進んでいない。 むしろ「客観は絶対正しいが主観は誤りだ」、というような、へんな理性主義者によって、オイラたちの日常活動の中核は、隠蔽され続けてきたのである。 カント先生が純粋理性を批判して、その誤りを質した。 そしてハイデガー先生が、隠蔽のヴェールを破壊してくれた。 にもかかわらず、そのことをテーマに採り上げた哲学には、お目にかかってない。 ナチス批判には、多々お目にかかるが。 大衆社会の金権政治の闇に、ぜんぶ消えたのだろう。 最近は他人の著作も読まんので、オイラが出会ってないだけ、なのかもしれんが。 ナチスなんかは、この分野の先駆者だ、と言える。 米国が、これをモロに、自分たちの偽ユダ組織の合目的対象化認識の技術として採用し、利用した。 闇で、軍事や金儲けにも継承している。 たとえばマーク(MK)・ウルトラ。 これも、学術としての心理学という目的工学がなければ、ただのオカルトである。 オイラが、この分野に気がついたのも、最近。 心理学に気がついたのではない。 米国政府が秘密裏にやってた、詐欺同然の人身操作に気がついた。 まあ、この問題は金儲けに関係することで、哲学とは無縁なので、無視。 哲学が問題にするのは、現実に自己享有されてある存在ということ。 自分の無知は気にするが、他人の無知はどうでもいい。 存在の現われは自分の無知に関わることで、時間・空間認識の現れ、である。 そのようなモノ・精神として対象認識された享有の(誤りに満ちた)モノなのである。 つまり、モノと精神にも、先験的な乖離、分裂がある、のである。 この分裂のこと、こそを、オイラたちは現実、と呼んでいる。 先験的総合判断の合致や調和ではなくて、デカルト先生が見出した「モノとココロの乖離」こそが現実である。 ドゥンス・スコトゥス先生が見出した、ヴァーチャリターこそが現実である。 ポイエシスは、その現実に反省された時間・空間認識の現れにおける、感性の構えの出来ていること。 出ー来。 でき、つまり、(現実の)しゅつらい。 ()部分を1、つまりモナスに偶像化して見てしまうと、この「しゅつらい」が見えなくなるのだ。 自分の肉体のオデキも、野山の、じねんじょの出来も、だから、ポイエシス、なんである。 自然と、あるいは天然に、出来たものではない。 その必然性に応じた「生命という感性のもたらす構え」、のこと。 ノヴァーリスの言う、鉱脈とともに見出される「青い花」なんぞは、まさに、コレだと思う。 必ず、「感性的な命の営み」が関与している。 まるで魔術的観念論としか解釈できない、へんな論理なんだが。 しかし、それなくして、自然に(あるいはしぜんと、)自然というモノが構えとして成り立つことはない。 そのことに、気がつくべきだ。 (自然は、名詞ではなくて、副詞なので注意されたい。ノヴァーリスはポイエシスには気がついているが、自然は名詞ではない、そのことには気がついていない) 今日のオイラたちは、自然を完璧に名詞化してしまった。 それでもって、もともと破綻で出ー来ている現実を、架空の1に押し込めることをやっている。 ポイエシスの「しゅつらい」を見えなくさせて、「隠蔽生活の日常」をやっとる、のである。 この隠蔽生活を、隠遁生活と混ぜてしまうのもノヴァーリス。 ポエムは、ポイエシスの場に立ち会うことで、この「日常を振り返る有職故実」とつきあう場なのだが、その共有の場は、プルーストに捜し求められても、見えてはこない。 時間・空間なのに、1に押し込めて、瞬間の「とき」、にしてしまうからである。 ハイデガー先生も、この時間自熟を空間所在に押し込めて、ダー・ザイン(現・存在)=メンシェン(人間)にしてしまった。 時間だけを空間無視で脱存論的に対象化認識するなら、オイラはダス・マンだと思う。 延長やカラッポのほかに拠る統べのない、空虚な、単なる人。 オイラたちの現実認識や情緒的な日常活動は、時間・空間というものについての対象認識の誤りや、偏見や、反省の欠如によって、泥沼化している。 いや、空虚な地獄に落ちているといったほうがもっと適切。 詩人自らがポイエシスを見失うことで、哲学者殺しに加担しているからだ。 そうやって今や世界中で、救われがたい状況に、自ら落ち込んでいるのである。