用語の整理23 倫理、道徳、宗教、そして理念2
道徳は、社会的に公共の場で認められる徳への、具体的道筋記述。 得への道筋、まあ、儲け話なわけです。 ヴァーチュ(徳)に、むりやり道をつけて、それがヴァーチャリターであることを隠したものである。 やはり有職故実の働き。 公共のためのものではなくて、目的を持っての個人的な教唆なのだ。 共有に、ではなく(目的を持って)「個人勘定に対して」関わろうとする。 それが道徳。 価値ヴェリテを、具体的に勘定できるようにしたオカネのようなモノと、類似のシロモノである。 得を1,2,3と、自分で勘定できるようにした道筋の契約文句、と考えていい。 徳育その1、徳育その2・・・という、あれ。 ヴァーチャルな、対象化認識には馴染まない感情の現実を、ムリヤリ勘定対象にしたものなのだ。 あーでもない、こーでもないとやって、みんなで教条文句に仕立てることの出ー来る、のは、コレである。 コレは「教条になる道徳の教え」であって、自らを規制する倫理ではない。 しかし道徳は、共有生活を営むため個人に課せられた規範、ではないんである。 倫理ではないのだ。 個人に課すつもりで仕立てたとしても、その役割としては無意味となる。 奴隷商人たちは、つい、その方向にばかり頭が行くようだが。 個人の享有する徳を、個々人が(自分で)損得勘定するための、手引きの教書。 それが道徳。 勘定するのは、あくまで他人ではなくて「個々人の本人」、なのである。 だから共有には関わらず、個人の享有に関わる。 まあ、勘定書きを先に渡して、それに見合う消費をしろと、奴隷相手に言ってるようなもんである。 だからであるが、倫理が教条書き出来ない規制ものであるのに対して、道徳は具体的に教条書き出ー来る。 つまりポエムに、抒情をもたらすことができる。 見本として、いいものが、過去のわが国にあった。 教育勅語に添付されてた、徳目というやつ。 典型的な道徳、である。 日本人の社会規範や倫理観形成に大きな力になってたと思うが、あれが学べなくなったのは残念、としか言いようがない。 教育勅語には、底辺大衆の奴隷化徹底を諮ろうとする、明らかにダメな思想が混ざっているが、徳目と言う名の道徳は、ほとんど、社会にとっては、いいものばかりだった。 但し、悪霊の言葉なんだからそれを忘れちゃいかんのだが。 両親を忘れるなかれと、本当はぜんぶ否定形であるべきなのである。 もともとは、否定形であったはずの、十戒的なスローガンがモトだろう。 もともと解かっている自然なこと。 それを、個々人に「思い起こさせる形式であるべき教条」が道徳である。 だから、肯定ばかりの道徳なんて、詐欺意図が見え見えとなる。 腐臭プンプンとなる。 特に、国を守る気概なんて、国のお世話になっていないのに、1兵卒で徴兵されて死ぬ役割の底辺奴隷階層に対し、自然に解かれ、と言っても、ムダじゃろうに。 そもそも、守るべき「国の定義や目的」が、ぜんぜんハッキリせんのに。 国民の命や財産守ってんじゃないよ。 貴族の財産?でもない。 しかし徳育はムダではなかった。 これを刷り込まれて、黙々と殺された人が大勢いた。 奴隷化支配には極めて有効、ではあったようだが。 これは道徳の本来の役割ではない。 ましてや、いかに有効であっても、劣悪なシュルハン・アルーフみたいなもんは、道徳の見本にはならないのである。 道徳は、別名、支配階級が奴隷階級に刷り込み、支配に利用してきた教条のこと。 そうとも思えてしまう。 そういう利用の仕方が一般的だし、採り上げ方もそうなので。 道徳を蔑視する人は、害悪に働く、こればかりを見てしまうんだろう。 だが、本当は、「自然と解かることへと導く、哲学と類似の役割を持った否定教条」であるべき、なのである。 否定形で書き直した十戒は、理想だと思う。 汝の親の恩を敬え、という肯定形は、悪霊の言葉。 悪霊の理念なんだと知るべき。 道徳は自然とみえてくるもの。 「汝にも親ありたることを忘る無かれ」、の否定形の方である。