新・ユダヤ人(推敲)2-4-10 ジュウ教2
古い文献を「全て」破壊し、自らの種族の血筋の跡をも、全部消そうとした形跡がある。 ギリシャ・マケドニア文化なんか、真っ先に徹底して消された。 焚書坑儒の本当の意味は、わかっていないのである。 なんで必要だったのか。 データ偽装と文書隠蔽が行われた。 それどころか、ぜんぶ黒塗り抹消されたという噂話だけが残っている。 一部の人が、命からがら逃げ延びたので伝わった。 どこかの国の、上級役人たちのやる偽装隠蔽と、まったく同じ行動に出た。 最後はなんと、それが儒学者の皆殺しにまで及んだのである。 ユダ族の抹消すら、図ったのだ。 これは表向き、成功した。 但し、一部の人が逃げ延びた。 これは後に話が出てくる。 これで、もともと中国地域にあった多様で古い諸文化の多くが、失われてしまった。 中国はもともと多様な文化を生むのだが、一様に消される場所でもある。 儒教が出る前には、その、もとの道教みたいなものが、幅広く、かつぶ厚くあったはずだと言われる。 だがそれらも、ほとんどすべてが、失われた。 漢字や諸文字までもが、消えた。 文字通り書物ごと、種族ごと消えたのである。 その中で、一部のものは秦に残った。 古い周の時代のものや、パルニ系のもののみが、復権をしていったように思える。 いろんな種族が、オイラは西域の出だと、周(アッシリア)の末裔だと主張することで、なんとか生き延びたのだろう。 高度な殷(イシン)の耽美的な青銅器文化が、改めて、ことごとく失われた。 それらは突然に、周の無骨で粗野な、しかし実用の文化に変わる。 これは秦の時代にあった文化破壊が決定打となったのでもあるのだろう。 どこかインド風の面影も濃厚にあるイシンの形跡は、特に徹底して憎まれ、破壊された。 しかも後の周の時代の奴隷文化を、殷の残虐な奴隷文化だと、真逆に言い立てて行った。 真逆に言い立てるのは、常に、彼ら一神教徒のやり口なのである。 ただ、その一神教は、これも残っていない。 始皇帝は神にはなれなかったのだ。 秦を逃れたユダ族もまた、一神教を持っていなかったからだ。 特にユダ族の学者(アッシュール風の一神教とは無縁な、儒学者)は、なぜか嫌われていたようだ。 ことごとく殺して埋められた。 ミシュナを徹底破壊したのは、理由不明なんだが。 政は道徳嫌いだった?。 秦の道徳はもともと、アッシリアやパルニ風のものではなくて、まったく別のものになりかけてた形跡がある。 その中で、アッシリア風に復古したのもの、のみが生き延びたんだ、と考えられる。 儒教の一部も、変節したものは生き延びたようだ。 荘子が、かなり残されている。 騎馬の種族の伝統である巨大なクルガンは、すでに築造されていた。 これと世界規模1,2位を争っているものが、わが国にもある。 見渡す山々のほとんどがそれだという、四国の地域すらある。 それを認識すべきだ。 秦帝国と同様の文化が、列島にもあったんだと。 これは騎馬民族の巨大墳墓、クルガンなのだから。 秦帝国の大王は、墓なんぞより、自分の不老不死の願いの方に狂奔していたという。 これを利用して、一部のユダ族は逃げ延びたと言われている。(徐福伝説) 大秦(シリア・セレウコス帝国)と秦国(本拠はグレコ・バクトリア)の連絡網も、やがて途絶した。 これはたぶん、主人筋に返り咲いた、西域出の連中の仕業。 自分たちの思惑からギリシャ・マケドニア文化を排除し、その先のシリアとの連絡をも、断ち切った。 しかし次には、秦国の兵站であり、中国側が堅固に作られた軍需幹線道路でもあった草原の長城も使えなくなっていく。 初期の長城は防壁ではなく、軍用道路だったのだが。 騎馬の民の、相次ぐ離反に見舞われていったようだ。 すべてが、ズタズタになっていくのだ。 秦国とザリ・アスパ、さらに母国パルニとの太い連絡路すら、すべて失せてしまう。 文字通り、一代で、もとの木阿弥。 文化行政で、幾世代もにわたって築き上げてきたシルクロードのすべてが、グチャグチャになっていったのである。 秦帝国の大王、政は、東国の諸国統一は果たした。 中国が生まれた。 だが、先王を支持していた騎馬の諸族がことごとく離反し、彼を擁立してはくれない。 それで気の毒にも、辰王(シーン王)とは名乗れなかった。 やむおえず自分で、皇帝という新称号まで、作ったのである。 この、王の上にしろしめす言葉が、ここで始めて生まれた。 それまでは、なかったものらしい。 表に出なかったイシンの将軍旗は、秦帝国からは、持ち逃げされたのである。 たぶん反乱を企てて失敗した騎馬の一門が、ひっそりと継いで逃げた。 またしてもひっそりと。 この頃のものだと思われる、契丹文書というのが残っている。 偽書だ、とも言われるが、真に迫っている。 ずっとのちの時代の渤海通史のころ、大和朝廷の貴族と、通訳なしに会話がなんとかできた連中の持ってたという、古代文書。 女王、アヤカシコネというのが出てくるそうだ。 一門の命脈を繋ぐために、乳飲み子マゴコロタケルを抱いて、トウマン単于のもとに嫁いでゆく、その門出。 居並ぶ人々は、すすり泣きして見送る、といった哀しい内容。 若くして王を亡くしたため、権勢のなかにあったはずの一門は、たぶん破滅に直面した。 起死回生の反乱の戦争でも、負けたんだと思われる。 それまで配下であったんだろうトウマン単于(これはチュメンという身分だといわれる)を頼った。 阿羅漢の一門は、またしても落ちぶれていた。 滅亡寸前だったのだ。 だが、反乱軍を糾合してきた匈奴を頼り、そこに合体した。 つまり今度は、配下だったキンメリア人にセノリして、生き延びた。 匈奴はキャンミュウルとも呼ばれる。 やがて草原の匈奴が勢力を増し、復興してくるのである。 この子は無事に、養子となった。 草原の将となって、騎馬の民イツシウ氏は、その命脈を全うしえた。 660年頃にできた王朝は、かろうじて血筋を繋ぐことができた。 ヘロドトスにあるイツセドウ、あるいはイツセドニスという人々も、たぶん同族の表現。 騎馬民族、イツセの君。 五つの川筋に居ついた騎馬の種族。 オイラも、だから、日本人騎馬民族説なんである。 一方、この当時のユダ族の方も、すでに過去から、学者や司祭、金融をも手がける、大商売人や王族なのだ。 だが、もちろん未だ、ユダヤ教のユダヤ人、なんぞではない。 その前身の、ミシュナ(道徳書)を持つのみ。 それはしかも、高度に洗練されて儒教となっていた。 ジュウ教。 礼節を重んじる。 だが、一神教の影響などは、ごく薄くなってると思う。 仏教の影響が感じられるというか、持ってたのかもしれん、のである。 いや、仏教の種族自体が問題なのだ。 サカ族は、実はユダ族が、自分たちの内部に、借氏として持っていた。 これは後に述べたい。 後の借氏の居場所は明確だが、このころの居場所は明確ではない。 たぶん、ちりじりになってたのである。 やがて辰王を継ぐ武士たちのほうは、高句麗の地へと、落ち延びていく。 そこに、シウシュミの女神を祭る五族の長となって、イツセの君がいたからだ。 彼らは後の時代、高句麗の支配権をも失うに至る。 実権力の無い、名目のみの辰王旗とともに逃れ出て、今度は燕王を頼る、ことになる。 こんな惨めな、相次ぐ敗北ばかりの歴史は残したくない。 なので、この時代の話は、ロクに残らんかったのである。 昔の記録読もうとしたら、他力で、自分の写真集ができてました。 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%88%E3%82%B9%E9%8A%80%E8%B2%A8&safe=active&tbm=isch&source=iu&ictx=1&fir=7tICY5P1E-VtoM%253A%252CdDR8_8PJ24oRiM%252C_&vet=1&usg=AI4_-kT7yd2m6h1jJHanLBUuUz7CAk4ogQ&sa=X&ved=2ahUKEwiNubLBzZLhAhXLM94KHWuJBusQ9QEwB3oECAUQDg#imgrc=UkEwPQlGhm7sVM:&vet=1&spf=1553154309546