庭の形而上学2ー7 常識の庭7
常識の庭の権能は法。 だが、その淵源となる時空などは、もともと、それ自体では無い。 過去の共有物なんだが、そんな感性を人は持たないのだ。 人が持つのは享有の過去であって、自分の身体がそれ。 しかし共有の過去などは、必ず幻想である。 (吉本隆明氏が、そんなテーマで書いてたな) それにもかかわらず、その法の権限は絶対を叫ぶ。 空虚な感性でできた無の弁証の図式を、社会全体に強要してくるのだ。 こういった事情を、カント先生は前もって何度も説明してくれていた。 経験的な認識を司る悟性の越権的な振る舞いだとか、純粋理性の、理想への予定追求だとかで。 その振る舞いの言い訳(弁証)が法を主張することへの警告も、純粋理性批判の随所に見られるのである。 (なのに、フィヒテもヘーゲルも、あえて、その道を哲学した) そして社会全体で、今度は哲学も無視してヘーゲル主義者になってしまった。 先験的弁証論は、容易に超越論的な弁証法を主張し始める道をつけてしまうのだ。 しかも、常識の庭の権能を背景にして、である。 常識の庭は、空虚な権力への意思で持って、共有常識を背景に見つめてきて。 堅固な世界像(宇宙論、心理学、神学)をそこに形成しうるものとなる。 形而上学ができる、ということ。 空虚なシェーマなのに、そのシェーマが、まるで先験的な統覚に導かれた現実であるかのように振舞うのだ。 純粋悟性概念の図式なんて、図式を出てしまえば無意味なカテゴリー。 つまりロゴスの単なるカタログ。 なのに、その時空の範囲を、あたかも「範疇する」かのように偶像化する。 この権能を範疇と主張する、無謀な、やからも出てくる。 若いころ、オイラはこの問題で法学の先生に楯突いて一般教養を棒に振った。 が、今更に間違っていなかったと思う。 ソクラテスは、ノモスの法に従って死を選らんだ、のではない。 それは法の淵源の名に絶対を言いたがる、権威主義者の常識の騙る、庭信仰にすぎない。 常識の庭の権能は、たしかに法だ。 だが、その淵源となる時空などは、社会の何処にも無いのである。 ノモスは有職故実の共同体であるが、享有する時空を持たない。 時空をもつのは個々人の享有、のみ。 この命題は、現代社会が世界ぐるみで落ち込んでしまっているニヒリスムスの、つまりは宇宙論にすぎないのである。 人が持つのは自分の(有限な)身体という過去であって、共有の過去など持たない。 その共有の庭は絶対のものではなくて、その場限りの、「見える物語」にすぎない。 有限な時空を持たされた感性、がその物語の中身、なのである。 常識の庭も、それを詐称して、一なる法に押し込めてしまうのだ。