新・ユダヤ人(推敲)3-5-6
ルター派のキリスト教は、「聖書と信仰と恵み」、を重視する。 神は、一なる絶対の契約としてあるのみ、である。 原罪の概念(カトリック)や自分たちの堕落した不都合な部分(カルヴィン)とは、信仰を切り離す。 だから彼らルター派は、一切、自分を反省して見ようとは考えない。 当然、神についても、考えない。 これだと、冷血漢達の一神教への復古運動である、とも言える。 聖書中心、教会信仰、神の恵みに頭を垂れる、奴隷宗教。 選ばれし者であることを疑う必要も思わない。 ルター派は、その意味でユダヤ教に、すごく似ている、とも言える。 ユダヤ人の迫害者の、最右翼なんだが。 一方、ユダヤ教の方では、自分たちの堕落した不都合な部分を問いただそうとする動きもでてきていた。 こっちがハシディズム運動より早かった。 それがサバタイ派、と言われる連中。 だが、それに対してルター派と同じ聖書を読みあう超正当派も出てきて対抗した。 これがハシディズム。 ハシディズムは、自分たちの不都合な部分を問いただし、その理由を探そうとするような、不埒な連中に対抗して生まれたのである。 その対抗馬の不都合な理由も、オレ達がダメ、という反省ではなくて、悪がオレ達を貶めた、となってしまうんだが。 サバタイ派という、この不埒なグループについては、後でじっくり検討したい。 一神教ではともかく、一なる智恵、あるいは知識としての、十字架偏重が中心となる。 その、「教会の形式主義・知識偏重主義に抵抗し」て起こったのが、敬虔主義だと、ハシディズムだと言われるのが普通。 この解説は、「真逆だ」、と思った。 彼らを相手してると、へんな、これが多い。 敬虔主義の、ハシディズムの人々の方が、オイラたちから見たら形式主義、共有知識偏重なのである。 乱れてきた世の現実を見ようとせずに、権威の持つ形式主義、知識偏重に執着する。 それが敬虔主義、超正当派。 彼等は、「生きた信仰とその再生」、にのみ拘るのである。 ユダヤ人の栄光だけ見てる連中。 だからちょっとだけ、カトリックみたいに神についても考えるのかというと、全く違う。 信仰に拘る以上、哲学みたいに、自分の過去に問いかけるのかというと、そうではなくて、ぜんぜん反対の未来志向。 「仲間内で聖書を読みあう会」、なんである。 哲学は法で殺して、ノモス内部の秩序を持ち上げる。 学者連中の権威確認勉強会。 それがハシディズム。 仲間内での、揺らいでいる自分たちの教会組織の、共有の再確認事業、なのである。 一神教徒は、組織として神の奴隷なのであるから。 個々人の享有などは、建前上、無い、からだ。 聖書絶対。 彼らにはもちろん、建前、というオイラたち日本人のようなウソ八百も、もともとない。 だから、八百万の神々も持たない。 生まれたときから叩き込まれる、聖書と信仰と選ばれし恵み、が彼らにはあった。 マグデブルク法という、現実の法律としても存在してた。 それが無視されて、この時代になってはじめて、彼らは一神教への復古運動を始めた。