庭のみつめ 18
感受性や反省といったものは特権からくるのではなく、みつめからくるのである。 原因がそこにある、んではなくて。 そこ(源泉)から単に、出ーて来る。 つまりポイエシスが絡んで来るのだ。 特殊な認識や、純粋経験や純粋理性からくるのではなくて (庭の)みつめから、詩的に(私的に、指摘して)来る。 この来る、は出ー来る、に似ているだけじゃなく。 何もない時空間にできるのではなく。 庭に、出来る(いでくる) 庭が大事、なのだ。 しかしその庭が、みえちょらん。 だから大事が飛んで、むしろそれを覆い隠す知識が居座るわけだ。 織られて覆う目的の偶像が、特権化して居座ってしまうのだ。 知識というのは、ただのデータベース構想の形而上学である。 つまり三つ目の織物。 重要なものじゃない。 重要なのは、その知識が絡んだ「感受性や反省とのつながり部分」だ。 これがなければ、知識なんて中性化された悪霊理念にすぎん。 むしろ危険な、プルトニウム濃縮法手順記載ノート、なのである。 指示書なんだが、肝心のモノがニヒリスムスで、空虚なのである。 この知識が絡んだ「感受性や反省とのつながり部分」の肝心部分のことを、知恵という。 ソフィア、である。 恵まれる知。 指示する知識再現手順ではない。 みつめは庭の恵み。 なのだが、その庭と別の特権で対峙しようとするので、恵まれているのがわからない。 知識という織物なんかどうでもよくて、「感受性や反省とのつながり部分」が大事なのである。 この織物は剥ぎ取ってしまわねばならない。 それが解かる、ということなのだ。 知識を剥ぎ取って捨てて、そこで初めて解かる。 何のためにそんなことやるのかといえば、「感受性や反省とのつながり部分」を大切に思うからである。 庭のみつめが、即、フィレイン・ト・ソフォンを解説している。 そのことが、これでわかるはず。 無知の知、ということを演繹して解説している。 そしてこの「感受性や反省とのつながり部分」というのが、アルケー(始源)であり、パトスであり、エポケーなのだ。 それを日常化する、自分に現実化するものが、カテゴリーである。 三つ目の範疇政治ではないので、間違わんように。 日常形成のありさまのみが現実を招き、自分の感性を反省的に持てる。 極限状態といった非日常では、反省の余裕などないし、感性も場合によっては理性すらも遠ざけられてしまう。 人は道具のように戦場に投入されて、あっさりと殺される。 現代は銃後も同じ。 今も細菌戦争やっちょる。 心頭滅却すれば火もまた涼しいかもしれないが、そんなのいやだろ? 三つ目世界ではしかし、人をタ・プラグマータな関係に無理やり仕立てて特権を操ることが叙情になってしまった。 つまり感受性や反省とのつながり部分をポイエシスで詩うことになってしまった。 虚無主義で、そんな庭を招きよせてしまったのだ。