聖アウグスチヌス 13 「経験」
「経験」を見ていきたい。 彼は経験から省察を始める。 まるでデカルトなのである。 「もしオレが誤るなら、オレは存在する」、という。 感覚の認識から入って、時間的には過去である魂の悪を確認し、次に肉体であることを確認したのである。 自己の存在確認を、彼は悪の実践を持って、行う。 つまり存在確認という、これは時間的に未来に属するものだとは思うんだが、もちろん彼がそう言ってるわけではない。 疑う、という事実を通じて、時間の秘密を探る悪人を自覚、しているわけだ。 (オレの時間を、(未来へ))疑うがゆえに、オレは「ある」、と。 時間的存在者である、とはのべていないと思うが、そのことなのだ。 自由意志論というので出てくるらしいが。 オレが生きていて(悪ゆえの誤りがある)がゆえに、オレがある。 生きているということと、存在している、ということは同じ意味となる。 人が存在し、生き、認識することは、同時に(神的な)確信とつながる。 眠り、という懐疑論独特の存在側の誤謬論議を、そこでオレに提示しようとしても無駄だと。 眠りも、狂気も、精神の分裂さえも、それが示しているのは人の生の肯定。 欲望も意識されているだろうし、(神的な確信があって)幸福を目指している者に、あんた、だまされてんだよ、といっても無駄。 カルトに落ちている者は救出なんぞできやしない、ということ。 それが現実認識だからだ。 理性の持つ先験的を、これは述べているわけだ。 感覚から抜け出た、魂の持つ先験的な確信について。 だが、これを支えているのが(悪ゆえの誤りがある)、ということなのである。 疑い得ない経験、に必ず戻ってくるわけだ。 「純粋経験」に、戻ってくるのではない。 必ず「悪のオレ」に、戻ってくるのである。 純粋な魂になるのではなく、存在し、生き、認識することは魂という先験的な、経験を導く権能を確信させる。 しかしこれは、オレは誤る、ある、がゆえの確信、なのだ。 経験は誤らない、とオイラたちは思い込んでいる。 過ぎ去った過去のことだから、帰納的に必ず正しいと。 しかしその経験を導く先験的な形式ともいえる理性認識は、悪のオレのものだから、神の前には必ず誤る、のである。 対象的認識の、錬金術の対象について、客観的に述べているんじゃない。 それを認識するオレについて、魂について、主観的に述べているだけの話。 そして経験というこれは客観に属するモノではなく、主観の先験的形式に属する、つまり時間・空間の秘密に属する問題なのだ。 一意であるかぎり、主観に誤りはない。 感覚の実在は、彼を迷わさない。 しかし客観に基づく経験には、客観というそれを可能とさせる魂がもつ先験的認識に悪があるがゆえに、致命的な誤謬があるのだ。 神の恩寵が、誤りのない主観で、それを告げる。 カント先生の論議の出発点が、ここに、聖アウグスチヌスにあると思う。 聖アウグスチヌスは、感覚からその経験を始め。 魂の存在、生きていること、認識を確認し、これを(魂の)内的な経験論議だとした上で、その経験論議を(哲学的に)破壊していったわけだ。 「神の働きは外に向っては分けることができない」、として。 ユダヤ人みたいに、仮想の場に、外に純粋に立てた魂のモノを論議していったのではなくて、オレの悪を解体していった。 そこで三つの顔が出てきた、とされることが多いみたいだ。 これにはペルソナという言葉が使われているのだが、アウグスチヌスに、安易にこれを使っていいものだろうか? この問題はちょっと調べかけたけど、ややこしそうなので、一旦置いておきたい。 経験を論議しているのに、うっかり形而上学的論議を持ち込むと、ややこしくなる。 このあと、イデア論に関する彼の態度を先に見てから、三位一体論の問題、神の問題、そしてカテゴリーの問題を見て生きたい。