聖アウグスチヌス 23ー1休憩
哲学は、キリスト教徒に担われることで、変質していった。 アカデメイアの探究心は失われ、リュケイオンの基礎教養も誤解されて、宗教に利用されていった。 自然学的探究心は、これも人の対象認識の客観的真理を利用した基礎教養ではなくなって、カルト主義者たちの専門的知識と化してしまった。 しかしいくら変質しても、哲学が形而上学に成り代わる、そんなことはないのである。 信仰も同様。 聖アウグスチヌスの信仰も哲学も、形而上学になることはない。 哲学は、破壊して自分でわかる、そのことだから。 信仰は? 奴隷制度を認めること、ではないはずだ。 さて、本稿の主題である23:時間の秘密を論じ、最後に、24:聖アウグスチヌスがなぜキリスト教という差別宗教に帰依したのか、そこを探っていきたいのだが。 基礎原稿ゼロからここまで来たけど。 先行きが不安になってきた。 一旦休憩して、聖アウグスチヌスから若干遠ざかり、時間論の問題点を自分勝手に探ることからやって、それから聖アウグスチヌスに戻っていきたい。 時間は、オイラを動かしている当のモノ。 オイラという、命のものだ。 だから、時間・空間から命を定義するなら、命の概念は拡張されるだろう。 一応、それを対象に確認できるオイラのモノ。 そこに時間がある。 物理的時間を仮にであっても定義し、客観的に論議することもできる。 しかしそれはオイラなしには無意味、となるのだ。 意味と、途切れる。 時間は、だから、関心や認識の所在、手続きの幅や経過、それらのクラスとして掌握できる。 人が、必ずよく自分で、よくわかっているもの、なのである。 <自分でよくわかっているもの、それが時間、である。> ワカランものじゃないのである。 主観的にも論議できるし、客観的にも論議できる。 自分で、それが現実だと、よく理解している。 いやむしろ、それらをささえるもの、なのだ。 魂は、自分において無時間的に自覚される、その瞬間である。 その魂が、こういったことを認識している。 が、この時間との関係やいかに、という課題も、出てくるのだろう。 時間というのは、魂の一点ではない、からだ。 これらの論議がわからんのは、自分を亡くした奴隷の亡者、ゾンビだ。 最近の物理学者には、これが無い、時間は存在しない、という人がでてきちょるらしい。 彼は人ではなくゾンビだ。 時間はまた、経験として想起できる。 経験、というものを論議できる人であれば、その個人享有の経験から、個人享有の時間を見出し、必ず論議できる。 ズルワーン、時と時の,ハザマ。 ツアイト(独)、というのはちょっとちがうようなので、ここでは、おいておきたい。 そう、時間ズルワーンというのは、トキではない。 厳密に言うと、ツアイトでもないと思う。 ・・・と・・・の間の、カラッポの空間のことでもあるのだ。 そこをカラッポの空間にして、はじめて、トキというワクが見える。 トキ、というのは心臓がドキ、ドキと鼓動するその鼓動の瞬間のこと。 関心を引く瞬間の今。 つまり何にもない、魂の空間。 それに対して、時間というのは幅を持ち、隙間を持ち、そこにモノを容れる。 言うなれば世俗的関心のクラスワクのことだ。 これも、カラッポという空間なのだが。 オイラたちは時間・空間という直感の諸形式(時間のみだが、カント先生が述べた)の中で生きているのだが。 これを同時に、同じ空間に置いて、同じものだとすることができない。 これは、オイラたちの感性の限界、なのだ。 というより、おいらたちの存在形式、有職故実の意味、なのだ。 オイラたちは神ではない。 死すべき不完全な生き者。 これを聖アウグスチヌスは罪びとだと言ったわけだ。 ベルグソンという人の時間論議があるらしいが、オイラ読んだとことはない。 憂慮がなければ時間と無縁か、というと、これも怪しいと思っている。 時間は魂と無関係のもの、のみではないのだ。 自然学的な質料としては、一切捉えられない。 タキオン粒子想定は自由。 物理的時間は自然学的な質料のそれを捉えてむりやり客観論議にハメたもの。 自分、という肉体のものでもあるから、必ず物理的にも認識できるのだ。 関心のクラスとして対象認識化できる。 というだけのこと。 時間は現実のクラスもの、と、アリスチテレス風に言うべきかもしれない。 時間論議は、必ず現実論議になるのだ。 ヴァーチャル論議にもなる。 但し、このヴァーチャルというのは、仮想現実というユダヤ風の意味ではない。 ドゥンススコトウス先生の、ヴァーチャリター論議がでてくるという意味。 現実のない定義だけの世界であれば、デジタル化すれば、むしろそんなの不要だ。 現実の経験から、その部分だけ取り出して切り出して、論議できるのだが。 きっちり対象化認識できない。 時間論議には必ず、空間が絡む、のである。 魂と同様、客観的論議のできん、代物なのだ。 量子にしてごまかせまへん。 つまりスキエンチアはできまへん。 これができる、と言い張るのは、悪魔のユダヤ人。 学問を、彼らはカルト主義者たちの絶対的専門的知識に化かせてしまった。 政治を操ろうとする学術会議のことだ、と思っていいと思う。 但し、政治も、政治経済であって、政治経済も庶民抜きのエリート特権のものじゃない。 時間・空間という、個々人の現実世界から切り出せないものなのである。 だから学術会議が政治に利用される以上、政治的発言権を持とうとしたのも当然とも言えるのだが。 哲学の基礎は錬金術じゃありません。 自分で、自分を解る、ことが哲学。 その哲学のない学問は、時間・空間のない魂の虚無主義。