聖アウグスチヌス 24ー3ー4時間論(再推敲)
過去は、それが正しい解釈がなされていなくても、必ず固有の自分の過去。 享有の過去なのである。 自分、という自由命題に上がったもの。 過去という時空問題から、日常の実在を経たものとなって。 経験的実在とされた史観。 過去は、共有の合目的過去なんぞではありえないのである。 必ず、自分だけの自由な享有。 しかも、その史観。 さらに、ここで、これは仕官とも同じ意味になることにも注意されたい。 史観というものは、この共有解釈想起のために必要な、それを反復してみるためにこしらえた偶像、みたいなもののわけだ。 対象に置いて見えるようにした暦。 そこに仕官して見なければ、わからない。 みんなで相手できるようにした、柱という、拠りしろ、みたいなものだからだ。 みんなで拠ってみなければ、わからん。 史観は、だから、歴史を絵巻物にして見えるようにした絵物語だ。 主観なのに、イメージピクチャーなのである。 それがないと、虚無があることになる。 つまり主観には必ず客観が含まれている。 観の、享有のほうじゃなくて、共有的に描かれた命題のほう、こそが、大事となる。 命題にこだわってしまうことになる、のだ。 ほんとうの過去の出来事とは無縁な、架空の時空のものなのに。 見えている史観の、観のほうは、その時空は、虚偽リアリティのウソなのだからだ。 形容と力関係は、現実という時間空間のなかでこそ、あるものとなる。 時間空間があって、日常にある、それではじめて究極のモノだと言える。 今においては、だから、なんにもない、のである。 ガル ニヒト。 だが、時間空間が日常に置かれると必ず、形容と力関係というものが出てくる。 形容、力関係と、時間・空間の関係、享有・共有の関係。 これが明晰判明にわかってくれば、ここにこそ、いろんなものが、実に豊富にありそうだ。 そのことは、あいまいにわかるのだが。 オイラの頭がぜんぜん整理されてなくて、きれいに見えてない。 この問題が整理できなくて、ウロウロしているばかりなのである。 予定がある、その未来のものは、これらと違うことは、わかる。 共有についてのみ、命題についてのみ、だと言える。 未来には、固有の享有は、ないのに。 しかし未来の、その先があるのだ。 よくわかっていて、あると言えるのは、固有の過去の享有みである。 現実は常に一瞬前の、すでに捌かれた過去にあったモノ。 共有は、今で、予定とつながってるだけで。 その先には、憂慮という空虚な時空形式しか、「ない」のである。 ここにもいろんなものがある。 但し、ぜんぶ空想のものだ。 過去は想起だが、未来は空想。 この空想も、バカにできんのである。 これらの問題に拘って引っかかって、先に進めなくなった。 聖アウグスチヌスどころか、自分が混乱して、わからんなってしまっている。 そうなってしまう、何か根源の秘密がここにはあるのだ。 なのでいずれ、このへんは基礎から改稿が必要となる、かもしれない。 過去と未来がここで、つながっているらしい、というのは、おぼろげにわかるのだが。 今、でつながっているんではない。 時空がつなげるのであって、中性や虚無はつなげない。 ダーというここは、ザインではなく虚無の今ではない。 むしろ命題の、命だ。 ザインの在は、命こそが、もたらしている。 命題に上がった経験的実在がもたらしているそれは、共有へと持ち込まれてつながっているのではない。 そうではなくて、虚無の魂へと、空想へとつながっているのでもない。 そう解釈されてきたようだが。 むしろ、命の命題である時間・空間と、つながっている。 それこそ、仕官してこだわってみなければわからない、時間・空間へと。