日本人の道徳 2
理念は必ず、自己否定的な理念の形で(共有世界に)与えられるのである。 経験がもたらす、後天的なもの。 道徳として描かれたものだということ。 しかもポシティブな肯定理念は、悪魔そのものの姿だ。 自己を否定して(理解が)与えられる、その理念も悪霊からくるのだが、それを肯定的にではなく、否定的に受け止めればいいだけだ。 ・・・でないのでは、ない、と。 悪霊が目を付けている自分が否定されたら、もう悪霊も力を振るえない。 「助かりそうなやつから優先救済せにゃ、共有の世では儲からんぞ」。 悪霊は、そう言ってくる。 死に掛けてる弱いやつを助けるのは、目的が見えてないバカのやることだと。 そういって命を殺しにかかるのが、悪霊。 だからバカになって、儲からん死にかけてるやつから、助けるべきなのである。 悪霊に否定されているのは自分も含めて、その命、なんだから。 救済者は他人の命に見えてても、目的を持って悪霊が狙ってるのは、人の命。 自分を含めての共有。 自分を否定的に受け止められない肯定論者は、もちろん世の中に多い。 彼らには、この複雑怪奇な共有ということの理屈がわからないだろうと思う。 悪霊も見えないし、自分が悪霊の手先になっている、そのことにも気づこうとしてない。 ポシティブな光、というのは、彼らにとって神の姿にみえるようだ。 だが、それは悪魔の力なのである。 悪魔バアルが、彼らに見える超越神だ。 肯定的には見えているので、存在者の存在だと呼びたがる。 古来から、日本人は自分たちが崇拝する神々の力は見えない、そのことを知っていた。 目に見える力は、必ず悪魔の力であることも。 もしその力の主がいて、それが存在者の存在であるなら、それは悪魔である。 神々にも等しい存在を主張する、(人の世の)怨霊だからだ。 理念というのは、人の共有する、この怨霊のことでもある。 霊魂、つまり魂がそれ自体は時空を持たない中空であるように、 形容や力関係が存在者を主張するなら、それは悪霊であるのだ。 目に見える理念は悪霊の形を採るので、必ず、自己否定的な理念の形で与えられねばならないのである。