時間と経済
現実、自分、みつめ、この三つは同じものだ。 現実は、関心のある物事に関わり、自分はその物事における自由や分限に関わり、みつめはさらに認識や判断に関わる。 ぜんぶ時間の延長の別名なのである。 時間は延長ではないのに。 実務、共有、三つ目特権、じつはこの三つも同じもの。 ぜんぶすでになく、いまだなく、瞬間にきえてない時間という、こちらは延長の容れものに関係している。 去った過去や、予定や、命題立ての拘りといった、ないものに関係しているのである。 あえて名指せば命題になっちまう。 これらに関係する時間の役割は、また、お金の役割にも似ている。 お金は、小アジアで発明されたものだというのが常識だが。 実際には中国がずっと古い。 商取引の多かったオリエントでは、そもそも発明されてないのである。 そこではハンコや信用状や貴金属が使われていた。 鉄は金より価値があった。 そう、享有に関係する概知の時間の役割、が命で。 共有に関係する、概知の時間の役割や目的が、お金なのだ。 未知の時間については、おいておきたい。 普通には、取引で発生する債務・債権がオカネで、これが生産活動を動かす経済だと思われている。 ありもしない共有予定の時間が、経済理論の基礎になってるわけだ。 オイラは、時間を個人享有のものとみなし、なおかつ共有不可能と見る。 なので、この経済理論は一切成り立たない。 お金が媒介しても、個々人の享有が立たないので、成り立たない。 その、お金が生まれなかったオリエントの取引のように。 シュメール伝統の経済は、今日の世界経済とは違っていたのだ。 近代から現代の経済学そのものも、基礎にあるのは形而上学だと、ユダヤ史観の魔術だと、オイラはみなしている。 近代経済学も、マルクス経済学も同じ穴のムジナ。 それを認めるのはムリだろうが。 別の基礎があるんだと押さえた上で、オイラの時間論を考えてほしい。 現実、自分、みつめ、この三つは同じものだが。 そこにあるのは時間という、ズルワーンという虚無ではないのだ。 ましてや、延長という神ではない。