聖アウグスチヌス推敲 5ー1ー4 マニ7
さてマニ教には、もっと本格的に踏み込みたい。 ゾロアスター教のそこに、ユダヤ教の「預言者の概念」を取り入れたものがグノーシスのマニなんだと、一般には言われて。 誤魔化されている。 だからこれも、ユダヤ人教師独特の、魔術的意図と見た。 つまり、真逆ウソが絡んでいるのだと思う。 この、「ユダヤ教という概念」も、実は怪しいものなのだ。 怪しいものを相手していてもしかたがない。 こういった怪しい問題には今回、深入りしないでおきたい。 はっきりいって、ウソつきとは、あんまりつきあいたくない。 連中に言わせると、おいらたちのほうが、自分を騙すのでウソつきらしいが。 マニの教えは、彼らから見て、愚脳死す野郎に見えた。 キリスト教とユダヤ教、つまりガチガチの一神教徒から見て、「善悪二元論、かつ仏教的な禁欲主義」なのであろう。 だが。 彼らキリスト教は、それらとは逆に、一元論かつ欲望大好きだった?。 いや、一元論や欲望などは、キリスト教の場合、ガチガチな主張はしないのである。 あいまいにして、民主主義論議のほうに話題を取り込んでしまうのである。 その宗教がもともと、自分相手の論議ではない、からだ。 つまりほんとうは、倫理問題ではないから、なのだ。 彼らキリスト教徒は「共有カルト」なのである。 個人主義が、わからない。 まったく理解できていない。 そもそも倫理問題が一切理解できないようなデジタル頭してるのが普通。 善と悪を、ズバっと立ちきるのが証拠。 一方のマニ教は、あらかじめ倫理問題を、宗教命題に含んでしまっているのである。 キリスト教徒は、その個人に対し、善悪判断などを決して迫らない。 公共的に迫る、のみだ。 宗教命題として迫らない。 聖アウグスチヌスを見ればわかる。 論駁する相手に、そいつの自分自身への善悪判断など、一切求めていない。 「最初から極悪人にきまっとる」、からだ。 現代のカトリックでも、神父相手だけに懺悔をさせるのみ。 キリスト教という、組織に対してのみ忠誠を誓わせる。 公共では絶対に、個々人の悪行を暴かせたりしない。 悪人にきまっとるからだ。 キリスト教徒は、常に特権者で団結する。 共和制を採るのだ。 倫理には一切、迫らないのである。 ただ記載して、見ることのできる道徳的、かつ知性的なものにして。 特権で迫る。 民主主義だと言って。 タンナーたちの間での、多数決のできる論議にしてしまう。 これでは、おかしな倫理観になるのだが。 自分たちの基本が「組織としての共有論議」なのだからだ。 そのための客観絶対優先なのだ。 漢民族に一般的と言われる個人主観など、キリスト教徒にはどうでもいいのである。 本質的にキリスト教は、「組織共有宗教の雰囲気がある」のである。 共和制という名の、全体主義がある、というべきか。 形而上学に絡めて見えるようにして、史観への一元化を図ろうとする。 と、そういったら、もっとわかりやすいかも。 実際彼らは宗教を、「公共の運営組織に」していった。 神の国、ローマ帝国にしていったのである。 そのため特に、清浄な聖職者幹部たちを必要とした。 グノーシス野郎では困るんである。 彼らキリスト教徒やユダヤ教徒から見たら、口先だけで禁欲を説くマニ教徒は、全員グノーシス派に見えた。 マニ教は普遍性を求める個人宗教なだけ。 まったくの無関係な言いがかりなんだが。 キリスト教の教義自体が、もともと世俗的かつ粗野であった、のは確かなようだ。 だが、マニ教は違ったのである。 これも聖アウグスチヌスが簒奪することになる修道院を、マニ教は持ってた。 仏教の組織運営に学んでいたらしい。 但しマンダラも持ってた。 倫理問題を、宗教命題に含ませて、しかもそれを視覚化しようとしていたのだ。 知性的なものにして、特権で迫ろうとしていた。 ここはキリスト教と一致する部分だろう。 形而上学的、だったのである。