悪魔はどこから
善悪を明確に分けて「理解しよう」として、悪魔が生まれた。 個々人の仕事を明確に集団と分けようとして、労働の質や奴reiの概念が生まれた。 ことごとく、享有と共有の混乱、泥沼によって生まれたものだ。 公私混同によって、形而上に。 見通す力や集団特権を、自分の理解のためにまとめようとする。 そういう認識努力が人にはある。 それを(特権的に)名指そうとして、三つ目のドラゴンが生まれた。 そのことも、聖アウグスチヌスを書いていていて気が付いた。 西洋の悪魔は、オイラたちの持つ(かわいそうな)悪鬼とは違う。 大概、神にも等しい「特権」を持っている。 これらは形而上の理解特権「モノ」、なのである。 形而上かつ修辞的に、それらを名指すための道具だ、ということ。 その道具に捕まるのが歴史観の運命。 ハイデガーはゲシヒテならぬゲシックという命運病だと見た。 これらは形而上学のものでありながら、形而上学の誤った概念がきれいに認識されていないために、不都合が生じている、泥沼病なのだ。 それを埋めようという無駄な努力が、カボチャの悪魔のお祭りなんだろう。 それがどこから来るのか、明確にしたいという欲求がある。 異教徒のものだとして、キリスト教徒は無関係のふりをするが。 明確に、キリスト教関係者の裾野から生まれた、悪魔のお祭り。 これはローマ教皇が悪魔を祀っている噂がある、そのこととも無関係ではないのだ。 形而上学の概念は、特権という名の誤った認識である。 理解、ではなくその逆の、認識。 これは理性の優越という、誤認から来るようだ。 理性は経験的に力を振るう能力。 感性は感受性として、経験的認識の型枠を図式化提供する能力。 ともに経験の中身はない、のである。 モナスに善悪の識別をさせることは、特権付与のシステムつくりを思わせる。 個々の理性に優劣を認め、その共有的ありかたを捻じ曲げている。 特権付与しているのである。 理性とは、経験を超越した、無時間、無空間のもの。 つまり空想上のドラゴン、にすぎない。 共有の仕組みの上でのみ、このアルゴリズムは有効なのだが。 そんなものでありながら、オイラたちは、理性や知性が、時間的なものに権利を持てると思い込んでいる。 利権が導いて権利付与すると。 これが曰く、カント先生の述べた純粋理性の先験的誤謬ということなのである。 理性は経験的認識においてのみ、後天的に有効である。 それが、ありもせん先験性を主張することが、誤謬。 絶対の悟性概念、なんてのがそれだ。 曰く、魂の永遠、などというやつ。 ・・・であるという存在は、経験した感性の反省にすぎん、のだが。 つまり反復した感性のカタログ化なのだが。 これを存在者の存在の真理、に合一させる。 一なる知恵、あるいは描かれた魂の真理に化けさせてしまうのだ。 カテゴリーに、化ける。 誤り、誤謬なのだが、それで世間は納得する。 カント先生の批判哲学なんて、未だに大勢の修辞学者に誤解されている。 批判してぶっ壊して、取り去って消し去るのがケーレ後の哲学なのに。 基礎を取り去って底を踏み抜くのが基礎的存在論なのに。 これはハイデガー先生の場合も同様、なのに。 形而上学の問題は、この哲学を修辞学だと理解することで泥沼化する。 オイラはこれに足をとられて、この年まで、ネッカー河の畔を彷徨う痴呆詩人さながらだった。 理性は共有の仕組みの上でのみ有効。 独自のアルゴリズムを持ち、その手順や図式に従うのである。 公私混同が、そこへドラゴンや鬼を持ち込む。 労働の質や奴reiの概念を生み、享有と共有の混乱によって、逆に肥え太るのである。 理性も感性も、特権でない導き手が要る、と、ついそう考えてしまう。 認識、というみつめがあるのに、なぜそれを見つめる主体やみつめられるモノにわけてしまうのか。 デカルトは分けてない。 理性と感性が不可分に厳然とあり、そして無知の知があるのに。 それに気が付きさえすればいいのに。 悪魔も、享有と共有の混乱によって、特権として生まれるのである。