先験性とは何か
先験性というのは、経験を経験だと認識させる能のこと。 倫理的なもの。 つまり享有に対して、自分個人相手だけに働くので、力や道徳ではない。 力は公共の共有概念であって、逆に、…である、享有に対しては無効。 つまり先験性というのは、経験の枠組み、のことなのである。 ・・・がある、現実にある、と言える、その経験に先立つ経験の枠。 そんなものが共有してある、のかどうかは別問題。 特に力があるのかどうかは、ほんとうに怪しいのである。 ただ、オイラたちは必ず感性を持つ。 サイコパスでさえ、微弱でヘンコでも持っている。 これは享有のもの。 これで、経験を常時反省、できる。 というか、しているから、・・・であと言えるんである。 存在するんだとわかる。 反省のできないサイコパス人も、共有の世間には多いが、枠なし無反省ではない。 先験している、のではなくて。 享有の感覚として経験してから、その感覚には枠があったんだと、脱存して反復(受け取り直し)できる。 感性は、その枠があるから感性となる。 つまり経験できるわけで。 この枠のことを、カント先生は純粋悟性概念の図式、別名構想力と命名した。 シェーマである。 それを先験的に知性論議しようとするなら、これがカテゴリー、に化けるのである。 ロゴスのカタログだ。 共有論議の、形而上学の範疇のことでは、ありません。 範疇は政治の、力関係の世界である。 まったくの、あさっての、べつもの。 感性には、経験を超えたアルケーの部分があり。 それが感性の先験性を予想させる。 だが経験を超えての認識は、神でないオイラたちには絶対に不可能なので。 認識の対象として形而上に掌握できる範疇などは、ありえない、のである。 しかしロゴスのカタログは厳然と、あるではないか。 目が、あるではないか。 見る者も、見られる物も、先験的にはないのに。 だが、ロゴスもミュトスも、これは「経験として共有的にある」、のである。 デカルトの無知の知は、この「ある」ことの脱存論的反復だ。 共有と享有が未分化で、こんがらがってて、まだ混然一体。 コギト、エルゴスムは近代的エゴの認識だとも言われるが、そのとおりで。 超越知性認識ではなく、エゴという「現実の感性的経験の共有再確認」なのである。 主語が立たなければ、これらは(共有としては)無意味な論議、なのである。 この点、オイラ過去に間違ってた。 みつめが(共有)「論議されるには、投射にせよ受領にせよ、主語が要る。 コギト・エルゴ・スムだけでは共有論議にならない。 「感が得る」、ことの「感覚枠」の同一性再確認、思惟の反省なのだから。 経験の枠組みを追及していたのではないが、思惟的反省においてアルケーを見出した。 そのアルケーには主語がある。 経験の内容を超えた、枠組みのアルケー。 時間と空間の本質に出会ったのだと、耄碌のオイラは思う。 デカルトは、コギタンスとエクステンサを引き合いに出して、その構想を説明しようとする。 これはロゴスのカタログ化をやっているのであって、それはミュトスの演出においてである。 思惟、コギトがそれ、なんだと。 知性だけで形而上にコピーしてるんじゃないのである。 同時に感性で反省も、しているのである。 先験性の論議は実在という、感覚(喪失)も知的理解もある出来事上のモノであって。 形而上の、知性だけの二進法、ではないのだ。 ましてや仮想の時空の話じゃない。 マンダラの宇宙論ではなく、錯誤の心理学で出来ているものでもない。 先験性というのは、経験を経験だと認識させる能のこと ある種の芸能。 経験の枠組み、のことである。 経験が無意味となれば、つまり享有世界では雲散霧消する。