三つ目 11 神々への、へりくだりとは
実は企画は、誓約の場にのみ生まれるのである。 神々をとりもつうけいがないと、生まれない。 超越したり三つ目になると、優生学企画はでてくるが。 まっとうな企画にはならないのが普通。 神々への、へりくだりから企画がくるのだが。 偶像が邪魔して、その肝心のへりくだりが、みえんなるからだ。 これを超越論的知的直観主義の信奉者たちは操るのである。 偶像を操る。 シンメトリーだとか、黄金分割だとか。 果てはコスモスだとか。 一なる永遠の神。 これは知性を知的直観神の超越に見てしまってのことだが。 神の御命令で、それらの企画が人にくるのだ、とする。 時間・空間を、神との共有の、神の側の超越的被造物にしてしまうのだ。 (時間・空間は人の側の享有被造物だが、現在の西欧世界では共有享有の関係がぐちゃぐちゃなので、そうなってしまっている) 身体を含め、有限な、人の側のへりくだりが齎した、人の享有認識なのに。 これを共有化して貶める作業やっちょる。。 奴隷制度を作り出してしまうのだ。 謝ったおまえが悪い、と。 時間・空間は、人の側のモノ。 人の享有する、人の感性がもたらした、その人の感覚という被造物である。 感覚も、モノとして初めて認識できる。 カント先生は、時間を直感の形式、という言い方をする。 空間についてはハッキリ言わない。 これらの共有扱いは、誤りなのである。 自分の感性があっても、同じものが他人にもあるので。 共有物だとしている、だけの無思慮な話。 時間・空間という現実は、自分だけにアルモノと言える。 モノ化しての共有なのに、そのモノの定義がおろそかなのだ。 しかも、自分が経験的に作り出した、自分の認識なのだ。 人の罪に由来するもの。 しがらみの類。 人の思惟はすべて、こういった経験的認識のもたらした、その思惟である。 自分の享有する、感覚や反省と一体のもの。 その思惟的経もまた同時に、必ず過去の自分の享有モノである。 未来の想定や空想ですら、過去の自分のモノで出-来ている。 共有企画であっても、享有の感性から生まれているのだ。 今という瞬間も、一瞬前の過去の「反省」にすぎない。 ほんとは、享有感覚がすべて、なのである。 つまり感性的あり方が、あるということの同義反復の正体なんだ。 これが本質だ。 ヴェーゼンするベ・ブストザインだ。 知的直観というのは、この感覚のコピー権能を、粗雑に共有化して言っている。 脱存論化した感覚の反省にすぎないのだが。 共有の知性を想定して、そこに偶像を据えてしまうのだ。 いわば、三つ目偶像を一にして、御殿に据え付けてしまう。 享有する過去の感覚が、有限な人の思惟のすべてであるのに。 永遠を導入して形而上学的にして。 偶像にしてしまうのである。 それが時間・空間という、直感の形式として反省可能な共有実在物だ。 時間・空間は形式に過ぎないのに。 見えてない図式なのに。 企画、構想力なのに。 見えるように置かれてしまう。 この過去を形成している、時空というのが、人の今の身体なのである。 時間・空間へと分岐する前の、人の命だ。 経験は必ず時空をもち。 その時空は、経験的感覚がもたらしている。 感性の図式という、先験的認識の形式によって。 先験的け図式という、仮想のカテゴリーをもたらし。 このカテゴリーが、身体の時空を反省可能にしているのである。 いわば思惟を可能にしている。 経験を可能にする先験的感性は、ことごとく自分の過去。 自分享有の身体的感性に由来するものなのだ。 この怪しげな関係を一言で言うなら、ウロボロスだろう。 極めてわかりにくいし、幽玄である。 よく見えないのだ。 特に享有が、そこでいつのまにか共有に化ける。 食い物のはずなのに、自分の身体に化ける。 つまり脱損論的にいうなら、バーチャリターなのである。 ドゥンス・スコトゥス先生の論議となる。 堂々巡りして、道義反復的で。 しかも、感覚のつかみどころのない、仮想現実となる。 脱損論でいうと、時間・空間が自分を食っていくように見えてしまうのだ。 これがウロボロスという蛇の怪物。 へりくだらないことには、この脱存論議は可能ではない。 三つ目では、現実を超越して偶像祭ってしまうからだ。 あるいは自分が神にも等しい、しかし具脳死すなものとなって それに気が付かないまま。 アイデアを生み出す知的直観の優生学神になってしまうわけだ。 哲学はへりくだって、それを阻止する。