三つ目 2-3 超越とは
超越エクジステンツがでてきたので、これをまず断罪したい。 共有制度が頭ごなしにやってくるのが超越である。 アルケーの導きなしに、つまり時間・空間の享有制約なしに、やってくる。 出ー来る、と似ているが、違う。 現実と無関係なのに、享有に君臨すべくやってくる。 いわば、享有が共有化させられる。 そうなって、享有のこれが「共有の現実」と化しているのが現代。 だからすべてが、架空の時空を被せた「詐欺」になっている。 無知な凡人の頭ごなしに核爆弾が人を焼き殺す。 修辞学上の詐欺行為によって、これは起きてきている。 哲学が殺され、修辞学にとってかわり、さらに宗教家によって形而上学化された。 それが基礎に踏みつけられて土台となり。 いわば心理学、宇宙論、神学という形而上学の上にタルムードが建てられた。 史的唯物論ならぬ詩的時空学が立った。 形而上学的詐欺の殿堂が立った、と言っていい。 修道院が乗っ取られ、さらに破綻した国家組織も乗っ取られた。 これが今や、世界中で表に出てきている。 一神教の悪魔組織に、キリスト教、あるいはイスラム教、はたまたユダヤ教とという、組織ぐるみで乗っ取られたのだ。 カトリックがいくら悪魔祓いをやってもムダなのは、組織がもともと病んでいるからなのである。 具脳死すになっちょるからだが。 しかも悪魔は、その認識が皆無で。 今や情報工学を駆使する。 エクジステンツ標ぼうのエクスタシー主義者に、普遍性を目指す聖アウグスチヌスの修道会は乗っ取られた?。 ちょっとちがいまんな。 エクジステンツ(脱存)とは似ているが、エクジステンツ(超越)は特別物なんである。 その別物を、フランスのへんなユダヤ人文学者が魔術にして、世界をケムにまいた。 脱存エクジステンツは、主義主張ではなく哲学である。 自分の享有という無知を知ること、だけである。 共有にして三つ目特権を得ることじゃない。 修辞学部分をも持たない。 アルケーを持つ。 つまり身体という時空と、直接つながっている。 聖アウグスチヌスの修道院も、勝手にこしらえた共有の国家利権に、一見、見える。 だが、彼は身体の感覚を何よりも大事にしていた。 哲学者は必ずケーレと、あんよひも(カント)を、原罪と恩寵(聖アウグスチヌス)を持つ。 決して超越しないのである。 先験的論議はするが、超越論議はしない。 超越はまた、哲学を持たない、のである。 勝手に人工物を、こしらえる。 時空から、自ら逸脱し、超越支配する。 それゆえに超越、という。 享有せずして共有する。 脱存は、エポケーやへりくだりがもたらしてくれるもの。 いわば、みつめに気が付くことで、哲学という時空が、むこうからネギしょってやってくる。 超越がやってくるというのは、ウソ。 宗教的にはなるかもしれんが、哲学も修辞学も、超越したそこで終わる。 感覚や現実という享有と離れ、カテゴリーやディアレテクチークの場を失って超越論となり、虚無に落ち込む。 まあ、哲学もまた、詩人のポイエシスに殺されるのであるが。 弁証法という、法を導入すれば この超越は、法の支配の前に空虚な虚無志向の権力意志と化すのだ。 これをやったのがイルミナティのヘーゲル。 文献学からみれば、彼の哲学は既存の宇宙論を崩壊させたのである。 しかしこの超越も、利用すべき身体利用しての超越。 共有の枠となる時間・空間を必ず、論議の場にこしらえ上げる必要があるのだ。 身体枠を微塵化して細胞にし、それを遺伝子にしても、 共有の枠が必ず必要。 超越も、モトになってるのが知性的転写概念なのだから、その知性の枠が要る。 それは神の超越性論議においても同じ。 コピー概念から、そのロゴス的命題からは、絶対に逃れられない。 一なる神を立ててしまえば、それが具脳死す化すれば、あっさり、すべてがワヤ。 しなければ、枠の概念も取っ払って、超越させるしかなくなるわけだ。 利用すべき身体、利用して。 時間・空間は、目に見えない枠であることをやめ。 形而上学的超越に奉仕する、共有枠ロゴと化す。 つまりこれは具脳シスと化したわけだが。 それを引き起こした連中は、この事態が反省できない。 賢いだけで、倫理観をほとんど持たないサイコパスだからだ。 超越概念の導入は、倫理観に縛られない三つ目の、偶像的超越設置であることとなる。 そのことがしかし、見えるだろうか。 いや、見えないのである。 三つ目など、ないからだ。 アルケー(源泉)の、つまり共有かつ享有する身体的感覚の導きなしに、思惟はありえない。 知的転写も、経験的蓄積や判断も起こらない。 このアルケーを共有法にしちまえば詐欺はやれるが、真実は、やってこなくなる。 遺伝子が不完全なので転写が失敗するんじゃあなくて。 遺伝子だとか物質情報転写の概念が、具能シスになっているのである。 現実のモノである時空が、見えてこなくなっているだけの話。 超越は、その不具合を超越して、ご破算にする。 命題詐欺をやろう、というだけの話。 単なる詐欺ではない。 時空が建てた命題を超越して、無の命題にすること。 あるいは未来命題にして未到来に建てる。 つまり優生学にして、具能な、愚脳な身体を神に近づけようとしたい、だけ。 予定や来るべき現実や宇宙秩序にして、無反省ゆえにありもせん原因や根拠にして立てる。 見えてない具能死す、をごまかしているだけなのである。 制度そのものとは?、共有そのものとは、身体と関係あるそれらがここに、見えかかっている。 超越エクジステンツは、形而上学が言うサイコパスがやる、詐欺である。