三つ目 形而上学(修辞学)3-1-1
メタ・フィジークは、「超越・自然学」という。 西洋の伝統的命題である。 これはメ(神々の力)・(タ フィジーク=自然学)だと昔書いたと思う。 間違いであったので修正したい。 メ(神々のあり様の共有的時空形式)に拠る・自然学批判なんだと。 個人の認識モノではないんである。 アリストテレス先生同様、メタ・フィジークは、三つ目論議の知恵知識の修辞学だ、と言いたい。 時代錯誤だったにすぎんのだ、と。 先生著作の、タ・メ・タ・(タ・フィシカ)の話じゃありません。 今は、「過去のオイラの個人思想」のほうの批判話してます。 シュメール語のメを、「神々の力」と訳す。 それが西洋の伝統。 だが、これは正しくないと、最近教えてもらった。 オイラも、正しくないと思うようになった。 西洋の伝統に照らした唯一神の力を想定しての、「目」論議に過ぎなかった。 つまりオイラの言う「三つ目の力」想定論議の命題立てなんだが。 これは神の論議には当てはまる。 しかし神々のほうには、この命題は、当てはまらないのである。 メという言葉に当てはめて、神々の力という命題ができているわけだが。 しかしメは三つ目ではない、からなのである。 だから神々の力、でもない。 神と神々は別物、ということ教えてもらって初めて見えてきた。 メ=神々の力、というのは。 シュメール古拙文字の、西洋風解釈。 これは読み間違いなのであると思う。 シュメール語は膠着語であって、そもそも西洋風ではありえない、からだ。 つまりオイラたちの言語なので。 多神教ではそもそも、神の力より、人の誓約(うけい)のほうが超重要である。 うけい、である。 パワー神への誓約なんぞではない。 神にも直面してません。 ましてや、神が神と誠約しあったりしません。 場のしつらえや、会合の「取り持ち」のこと。 個々人の知性認識や、三つ目の目の力なんてどこにもない。 ぜんぜん、もともとあてにもされてないのである。 ご利益はあるんかもしれんが、のう。 組織に対しては、「過去の成果が大事」、なんであって。 極端に言うなら、建前にも通じること。 長いものには巻かれての、形式や作法の「枠仕立て」が何より大事。 つまり時空のシェーマが大事なんであって。 個人の信仰心だとか、個々人の心の帰依度なんて、一切求めちょりまへん。 この命題は、聖アウグスチヌスの問題人物の執り行う儀式が有効かどうか、というのでも出てきた。 サクラメントの有効性というやつ。 死にゆく個々人の眼力や、個々の超人の未来なんて、共有の建前にはどうでもいいのである。 選びも、特権も、そこには、サクラメントには,ないのである。 仙人は世捨て人ときまっちょる、じゃろ。 メについても同様。 チカラなんて、これもぜんぜん、あてにされてない。 オイラのほんとうの哲学のはじまりは、「メについての試論」からだったが。 そしてこれはシュメール古拙文字で「目」と書かれているんだが。 名、明、命,迷など、メイやメー、も、すべてこの言葉なんだが。 メは、器官としての目でも、機能としての目でも、力としての眼力でもなかったのである。 むしろ眼前に「ある」こと、らしいのだ。 等価の言葉が、イル・ガ・ガというらしい。 このあとのほうの文字は、ガン(目)という漢語ともなっていった言葉。 居る・画・我と書けば、実にわかりやすくなる。 シュメール語は、いかがわしい言葉ではない。 地上に生まれた最初の文字を持つ、最古の言語であるとされる。 もう、それを直に話し使っている人はいないと思うかもしれないが。 それは大間違い。 今日でも使っている。 そう、「モロにオイラたちの言語」、ウラルアルタイ語のことなのである。 これもいろんな人から教えてもらうまでピンとこなかった。 それだけ深く洗脳されてた。 スバルの山岳地域に居た太古から使ってて、父祖の地はアッシリアに奪われてしまったが。 逃げた子孫の暮らした高原地帯を、敵の言語でウラルトゥといったそうだ。 正しくはビバイナ(美馬伊那)だと、これはオイラも昔からの漢字あてはめ主張。 高天原(たかまがはら)、というと、わかりやすい。 漢字の文化にもシュメール文化は濃厚なのである。 アッシリア文化の影響も濃厚。 で、言語の構造も変わってしまっているんだが。 古モンゴロイドに担われた言語だと言われているシュメール語は、今も列島で生き続けている。 失われた言語でも、外国語でもないのである。 ウラル・アルタイ語、そのものなのであると、これも教えてもらった。 日本語の基層に磐座(いわくら)のごとくにある、その「基本言語」なのであると。 だからイルガガも、確かにこれでいいと思う。 居る・画・我=目(メ)で。 これがわからん人は日本人ではない。 「目」というのは、イルガガにおける対象的認識のことだけではないのである。 見る者と見られる物とのデカルト的分離などは、もともと「ない」のだ。 アヌンナキ、所属の大地を持たない、奴隷でない認識が主導する思惟。 素朴に現実に見えているだけの、その存在、ということ。 いる、と、ある、の同一性と差異世がわからんと、むつかしくなるが。 我の認識に写す、知性的認識と感性的認識のはざまにある現実の様のコト、なのだ。 いる、つまりある、ということ。 これを、メとして膠着語風に捉えれば、こうなるわけだ。 居る・画・我=目(メ)と。 西洋の伝統だと、1神教の神なしにはには、何も始まらない。 存在者の存在なしには。 だが、多神の伝統だと、すでに大昔から始まっている。 アヌンナキのまま。 イルガガが、メが、はっきりしなかっただけ、となる。 ある、が必ず最後にくる、からなのだ。 わけのわからんものだけ最後に来て、場合によっては、それでひっくり返る。 シュメールの神々は、オイラたち日本人の、八百万の神々のこと。 イギギ・アヌンナキ(行き来し、所属の大地を持たない)の神々、なのである。 メは、そのイル・ガ・ガの「不可思議な有様」のことを指している。 もちろん神々の絡む、目、なのである。 だが、「神の力ではない」のだ。 オイラたちの種族を存続させてきた、過去という現実。 その「有職故実の諸々」のほうのことだ。 西洋のカルチャーとは基礎が根本から違うのである。 文化というのは、「共有の文化」のこと、なのである。 個人の奴隷労働とは無縁。 文化は残滓ではなく、生産活動、労働のことではない。 オイラたちが生きてある、その「現実」の形式のこと。 奴隷の制度や実践ではなく、共有する建前する現実のこと。 イルガガ、我あり、ということ。 その不思議な一期一会の過去。 謎や、明るさや、彼岸世界の空想や、名指しや、刻印。 個々人の信仰などとは、まったくの無縁であって。 種族共有の文化形式をなす、みつめ、のことだ。 集落の外れで、群れてたたずんで、ひっそりと見守る神々のありさま、 共有概念の様子のことである。 メーは、断じて三つ目の力なんぞではない。**コピー利用ご自由に。営利はご相談を。