三つ目 3-2-4 サクラメントと修辞学
前節で、科学とサクラメントの関係がでてきた。 これおもしろそうだし、演劇風の騙し、つまり魔術もでてきたので飛びつきたいが。 先に修辞学との関係を片付けておかないと。 修辞学はいわば、その「サクラメントの有効性を語る」べしの実務学なのだ。 知ってて得する儲けの学。 ご利益がある、ということ。 数学の有効性を騙るのは方程式だが、有職故実の儀式の有効性を騙るのが修辞学。 語るも騙るも、言葉へのアプローチの角度が違うだけ。 まったく同じ意味なので、その意味で使ってるので、ご注意を。 修辞学は、公共の場の有職故実的学問である。 なので、先生が悪人であろうが詐欺師であろうが、一向に構わない。 教えてる知的な内容には影響されない。 有職故実的な学問体系がきっちりできていて、悪意誘導や露骨な詐欺が紛れ込んでいなければ、問題なくなる。 サイコパスは問題かも? 問題ないと思う。 聖なるミサは、その有職故実による誓約形式なのである。 つまり多神教の要素をもともと持っている。 だから、その形式さえ整っておれば、司祭の人格なんぞは一切問題ない。 これは聖アウグスチヌスがローマ皇帝に裁可させた修辞学的真理である。 この聖人も、ローマ帝国のやる悪行に身売りして加担していたのだ。 ローマ人たちは実際に、アリストテレスを自分たちの文化形式で完璧に書き換えたのである。 しかし倫理観の欠如があれば、対象者にはサクラメントは完璧には機能しない。 読者は迷わせられてしまう。 その書き換えはしかも、読者の彼らを形而上学へと駆り立て。 さらに、それでもって具脳死す主義へと導いてしまったのである。 この関係も、もう一度おさらいすべきだろう。 オイラ自身が、愚能シス化しかかってる。 サクラメントの有効性が、そのまま。 形而上学やグノーシス主義を招いた根本原因だ、と、オイラ言ってるのだ。 実務には問題なかったが、無知の知が消えたからだ。 多神教なら共有論議の建前上問題ないが、個人相手の魔術を企画する1神教で、これやってしまった。 倫理観のおかしい人が、アリストテレスの定義した諸問題で、この修辞学的成果の問題に接した。 「掲示場額」を必要とした彼らが、形而上学やグノーシス主義を招いたのだ。 誤変換じゃおまへん。 両者ともまったく同じ意味。 サクラメントが利用する個々人の倫理観というものが、その意味を判別する。 判別して、形而上学やグノーシス主義に流される危険を予防する。 つまり、これはサクラだと理解する。 しかし倫理観の欠如している人には、建前のサクラという、その真意が見えないのだ。 いっしょにワイワイ、適当に熱中してお祭りできない。 神様などどこにおるねん、と声上げてしまう。 宇宙体系がただの一つでコスモスの秩序で、理性の神は全知全能のくせにできそこない、だとつい思ってしまうようなのである。 修辞学が、その誤謬を糾した。 アリストテレスの論理学が、神の理性を代弁してくれるはずだった。 しかし歴史を見ても現に、人は愚能で、組織も愚能じゃおまへんか。 世の先行き見えずに、試行錯誤の過去も、まるでデタラメ繰り返してるやんか。 全知全能の神は、自分みたいな出来損ないでは? という疑念が兆したのだ。 この1+1=2ではないかも、という愚能死すを出る、単純な手がある。 「愚能死す」は、「具能シス」だと、共有組織のサクラなんだと、悟ればいいのだ。 無知の知の軽薄版である。 サクラメントの有効性を教えてくれる修辞学的知恵が、この形而上学的世界観の怪しさを糺してくれる。 有職故実にしてくれるのだ。 職を在り、にして成果実の理由を、もつれた現実から切り出して見せてくれる。 つまり倫理的奴隷の束縛から、解き放ってくれる。 かくして哲学は、ローマ帝国で修辞学へと変節したのである。 未だ掴めてない形而上学構想と、神の知性顕現のための学問となった。 三つ目学になった、のである。 政治家のセンセエ方が、懐算段に十分活用できる「実務の学問」ともなった。 呼んできたサクラ据えたら、サクラの人格関係なしに、政治も経済も、当面はうまいこといった、そのためなのだ。 そしてこれが、やがて合目的対象化認識による再現技術の指示書を可能にした。 明確に見える有効性があるので、基礎となるのである。 なんと建前が、科学技術の生みの親なのだが。 その建前を消して1神教の英知を据えたので。 それを教えて導いてくれたのも、「実務の修辞学」なのである。 ローマ帝国はアッシリア文化を、特に十字のカワハギ文化を、建前化し消した。 しかもそれ(アッシリア)をサクラメントとして継承することで無類の強国となり。 奴隷にしたギリシャ人を教師にして王族が修辞学を得て。 形而上学が齎す、具能死すの脅威を乗り切り。 それを基礎に踏みつけて科学技術が生まれたのである。**非営利コピー自由です。バラケたのをまとめたいし推敲もやりたいけど、もう時間がない。聖アウグスチヌスの推敲原稿なんて、パソコンごと消えた。